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米子から尾高へ
大山のある鳥取県西部(伯耆国)最大の都市と言えば、何と言っても米子市。その米子と大山を結ぶのが尾高道であり、もちろん松江など島根県主要部から大山を目指すにも最短ルートとなります。現在でも「大山観光道路」と呼ばれている県道24号が通るのもこの尾高道のルートで、まさに今も昔も大山へのアクセスに最もよく利用されている道だと言えます。当サイトでは「米子と大山を結ぶ道」として米子市街からご紹介していくことにします。
●湊山公園
スタート地点は中海に面した湊山公園とし、中海宍道湖都市圏の諸都市と大山を結ぶ道だけに、中海に面した標高0mの地点から歩き始めることにします。いきなり夕景の写真から始まっていますが、これは「夕日の像」と呼ばれるモニュメントで、中海に面した湊山公園は中海に沈む美しい夕日が見られるスポットです。また、公園は米子城跡の方までつながっていて、米子屈指の観光名所であるとともに市民の憩いの場にもなっています。

6301.夕日の像
夕日の像から正面に進むと、公園から県道に出るところには何本かの松の巨木が目立っています。これは江戸時代初期に米子の城下町が形成された頃に防潮林として植えられた樹齢約400年の「潮止め松」で、現在は11本が残されてます。つい最近まで湊山公園の入口にもう一本残っていた松は平成23年(2011年)豪雪のため折れ、その後枯死してしまいましたが、それをきっかけに潮止め松を守り育てる活動も盛んになってきています。また、6302の写真に写っている石柱は明治時代に皇太子殿下(大正天皇)の山陰行啓時に建てられた「鳳翔閣」の石柱です。鳳翔閣は昭和45年(1970年)に取り壊されましたが、同じ経緯で建設された鳥取の仁風閣や松江の興雲閣にも劣らない名建築だったそうです。ここから医大通り(県道47号)に入り、まずは旧加茂川の河口にある灘町橋を目指します。

6302.潮止め松と鳳翔閣の門の石柱

6303.旧加茂川河口の灘町橋
>拡大画像 SAVE THE “潮止め松”プロジェクトの案内板
灘町橋の西詰にある交差点を右折して100mほど行けば、右側(南側)にはかつての回船問屋で重要文化財にも指定されている後藤家住宅があり、港町であり商業都市である米子の歴史的な繁栄を感じさせます。その北に架かっているのは京橋で、境往来の起点となる橋です。日本遺産の構成文化財となる「旧加茂川の地蔵」としても、京橋の南詰に「橋守り地蔵」、北詰に「橋番地蔵」があります。

6304.旧加茂川沿いを行く

6305.後藤家住宅の蔵など(北から)

6306.後藤家住宅の主屋(東から)

6307.橋守り地蔵
京橋の北詰には古い町家を改装した「米子まちなか観光案内所」があります。地元の本や名物の販売もされていて、何よりガイドレベルの方がほぼ常駐しているので、米子の町について単なる案内所のレベルではありえないほど深い話をお聞きすることができるのが魅力です。
ここでまた右折して旧加茂川の一つ北の通りを東進していくと、200mほどで城下町らしいクランクになりますが、この「中ノ棚まがり」では北側の曲がり角が明らかに鋭角になっています。この場所が中世までの条里制で造られた城下町(内町、灘町、立町)と近世になって拡大した北東から南西(北西から南東)の方向を向いている城下町(岩倉町以東)の境目となっているため、そのズレを調整した結果の道路形状だと考えられています。なお、近世米子城下町の建設に多大な功績を残したのは家老の横田内膳(村詮)で、旧加茂川沿いの広場にはその功績が記された案内板も立てられています。

6308.米子まちなか観光案内所

6309.鋭角クランクの中ノ棚まがり
>拡大画像 横田内膳の案内板
●旧加茂川
旧加茂川は水路として利用できるように人工的に改変されながら、米子の町の産業と生活を支えてきた川です。京橋から400mほど上っていくと尾高町には川沿いに古い土蔵群が残されているところがあり、そこから運航されている加茂川中海遊覧船は米子を代表する観光スポットになっています。その遊覧船のりばの先で川は直角カーブして米子城の(現存しない)外堀と分かれると、また100mほどでもう一度直角カーブするというクランク形状で西倉吉町、東倉吉町の商店街の方向へ続きます。このクランクの先、笑い通りや本通りの商店街の裏にあたる辺りでは、個人所有の小橋を含む極めて多くの橋が架けられていて、橋の密度は日本一とも言われています。

6310.土蔵群と加茂川中海遊覧船

6311.クランク状に曲がる

6312.そこらじゅうに小橋
●旧加茂川の地蔵
旧加茂川沿いには多くの地蔵が祀られています。単に数として地蔵が多いというだけでなく、独特の「札打ち」の風習が現在も健在で、各地蔵には多くの札が貼られています。また、これらの地蔵の数は現在でも増え続けていて、米子繁華街のシンボル的存在として親しまれている「咲い地蔵」は昭和59年(1984年)に建立されたものですし、6314の写真の「つなぎ地蔵」は間違いなくさらに新しいものでしょう。「日本遺産」とは言うものの、地蔵信仰は決して過去の遺物ではなく現在も生き続けている風習だと言えます。地蔵の中にはもちろん古いものもあるのですが、歴史遺産としての価値がないような新しい地蔵を見ることでも、大山山麓の地蔵信仰の伝統を感じることができます。

6313.咲い地蔵

6314.つなぎ地蔵

6315.川守り地蔵
>拡大画像 加茂川の橋と地蔵の案内板
国道9号を横断しても、旧加茂川沿いの雰囲気は相変わらずで、たくさん架けられた小橋や、市街の細かいネットワークを構成する小路、そして点在する地蔵を見ながら東へ進んでいきます。都市景観として美しいとは言えませんが、この辺りの町の姿はまさに米子独特のものと言えます。それでも、最近では地元も意識して環境美化の活動を活発に行うようになってきているそうで、その結果、令和元年(2019年)には糀町あたりで蛍も見られたそうです。

6316.国道9号を横断

6317.子安地蔵
旧加茂川沿いを行くのは6317の写真の子安地蔵までで、糀町橋の東にある6318の写真の交差点を左折して出雲街道に入ります。ここから博労町を経て米川橋までの間は「出雲街道の道のり」でご紹介しているため、詳細はそちらをご覧ください。

6318.糀町からは出雲街道を東進

6319.博労町1丁目交差点

6320.博労町駅脇の鳥取街道踏切

6321.米川橋
米川橋の東詰には車尾の道標があり、ここで八幡の渡し経由の出雲街道が南に分かれますが、ここは直進して山陰道を引き続き東進していきます。城下町からは出ていますが、車尾地区では比較的古い時代から街道沿いに発展していたことがわかるような街並みが続きます。沿道には国の名勝に指定されている深田氏庭園もあり、続いて県道300号を横断すると、日野川の堤防に上がっていきます。

6322.車尾地区内の旧街道

6323.貴布禰神社

6324.深田氏庭園の玄関

6325.県道300号を横断
●日野橋
日野川の車尾の渡しの流れを汲む日野橋はまさに米子の東の玄関口と言える橋です。現在ではすぐ北に国道9号の新日野橋が架けられているため、歩行者、自転車専用の橋となっていて、自動車を気にせず、大山をはじめとした周辺の景色をゆっくりと楽しめます。また、橋の西詰には初代の日野橋の親柱が保存されています。

6326.親柱が残る

6327.日吉津方面には大きな製紙工場

6328.鉄骨を眺めるのも楽しい
>拡大画像 日野橋の親柱の案内板
日野橋を渡ると、山陰道は北、車尾の渡し経由の出雲街道は南へ曲がりますが、大山道は直進し、熊党交差点で国道9号に合流します。300mほど国道を歩くと、伯耆大山駅入口交差点で斜め右に分岐する県道262号に入り、大山道路踏切で山陰本線の線路を渡ります。

6329.しばらく国道9号を歩く

6330.斜め右で伯耆大山駅方面へ

6331.山陰本線の大山道路踏切
次いで伯耆大山駅前交差点では右折して県道160号に入りますが、100mほどでまた左折して進路を東に戻します。その側にある巌公民館には付近にあったと思われる道標が移設されて保存されており、読みにくくなっていますが、「右ハ 大山道」の文字が見られます。

6332.伯耆大山駅前交差点で右折

6333.巌公民館に移設されている道標
南北朝時代に名和長年とともに活躍した内河氏が興国2年(1341年)に建てたという両足院の前を通り、今在家地区に入るとようやく家並みが途切れ、田園風景も広がるようになりますが、道沿いにも地蔵堂や種々の石造物が見られたり、塀に囲われた立派な家が目立つなど、古くから発展してきた村という雰囲気があります。

6334.両足院

6335.今在家地区の地蔵堂

6336.立派な屋敷が多い
今在家の集落を過ぎると、大山街道踏切で伯備線の線路を渡ります。続いて今在家入口交差点を右折して、「米子大山線」を名乗る県道24号に入ります。この付近には山陰自動車道と米子自動車道の米子インター・米子ジャンクションがあり、米子のみならず山陰の物流の要となっているため、高速道路でよく見かけるような有名どころの運送会社の支店・営業所が多数立地しています。

6337.伯備線の大山街道踏切

6338.今在家交差点を右折
山陰自動車道に続いて米子自動車道の高架橋をくぐると、尾高橋で佐陀川を渡り、尾高地区に入ります。堤防を下り、駐在所や郵便局を過ぎたあたりからは、沿道にも古い立派な家屋が増え、これから古い町に入っていくという感じがします。

6339.尾高橋で佐陀川を渡る

6340.尾高の町に入っていく
●尾高
尾高地区は大山から続く裾野と日野川が作る平野の境目にあたるという地理的条件もあって、古来から交通拠点として発展しており、特に中世には東の丘陵に尾高城跡が築かれ、伯耆国西部の中心地とも言える場所でした。米子の城下町が発展した近世以降も、北の前市、南の上市がそれぞれの役割を持って独自の発展を続け、牛馬市も開かれていました。大山道の道筋としては尾高西交差点で右折しますが、直進して県道24号と県道53号が交差する尾高交差点まで来れば、「左 因幡道 右 大山道」と刻まれた道標と常夜燈が保存されており、尾高が交通の要衝であったことを物語っています。

6341.尾高交差点脇の道標と常夜燈

6342.尾高西交差点
 
6343.前市の街並み
●大神山神社
尾高西交差点から南下し、前市に続いて上市の町を通り過ぎたところに大神山神社があります。ここは「式内社」であるとともに、伯耆国の二宮でもある格式の高い神社です。大神山神社と言えば、大山の大智明権現を祀る「奥宮」を思い浮かべますが、かつて大山寺が管理していた大智明権現社を神仏分離のため、この尾高の大神山神社の「奥宮」として位置付けるようになったものです。

6344.大神山神社
>拡大画像 大神山神社の案内板
尾高から大山へ >>
  • ●地名、人名等の読み方
    •  尾高=おだか
    •  伯耆=ほうき
    •  鳳翔閣=ほうしょうかく
    •  仁風閣=じんぷうかく
    •  興雲閣=こううんかく
    •  灘町=なだまち
    •  中ノ棚=なかんたな
    •  横田内膳(村詮)=よこたないぜん(むらあきら)
    •  咲い地蔵=わらいじぞう
    •  小路=しょうじ
    •  糀町=こうじまち
    •  博労町=ばくろうまち
    •  米川=よねかわ
    •  車尾=くずも
    •  熊党=くまんとう
    •  内河=うちかわ
    •  興国=こうこく
    •  両足院=りょうそくいん
    •  伯備線=はくびせん
    •  佐陀川=さだがわ
    •  上市=うわいち
    •  因幡=いなば
    •  大神山神社=おおがみやまじんじゃ
          
  • ●関連ページ       
  • ●参考資料
    •  米子市立山陰歴史館運営委員会「米子のふるさと散歩」
    •  よなごの宝88選実行委員会「市民が選んだよなごの宝八十八」
    •  米子まちなか歩こう会「米子の小路八十八 〜まち歩きガイドブック〜」
          
  • ●取材日
    •  2018.4.11/11.28
    •  2019.6.14/8.20
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