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三坂峠から禾津へ
   
●三坂峠の道標
山生方面からの道と合流して一つカーブすると、「左 三しやう(山生) 右 久世」という道標があります。よく見ないと単なる山道にしか見えない道を歩くのもずいぶん長くなってきましたが、この道が現在の国道313号に該当する旭川沿いの道筋がよく整備される以前には「山中地方」(真庭市北部)と美作国中央部を結ぶ最重要の交通路であったことは紛れもない事実であり、正確な地図もなかった時代、この道標により、久世方面への旅人は右、津山方面への旅人は左と確認を行っていたことでしょう。

5201.左 三しやう 右 久世
 
●釜地蔵
さらに下ると、次の史跡は釜地蔵です。大山道や出雲街道を歩いていても、このような石室に入った地蔵は珍しいです。また、首などあちらこちらが欠損してしまっていますが、それについては案内板でも語られていません。そのことも含めて、古道には当たり前のようにある地蔵の中でもインパクトが強く、異彩を放つ地蔵です、

5202.釜地蔵
 
>拡大画像 釜地蔵の案内板
5203の写真の巨大な題目塔の辺りから釘貫川の源流が姿を見せ、谷筋に出た道は勾配も緩やかになってきます。5204の写真の三坂峠の案内看板がある地点からは自動車も(一応は)通行可能な道になりますが、集落はまだ先で、自然豊かな道が続きます。

5203.題目塔
 
5204.ここから自動車通行可能に

5205.釘貫川の源流
 
5206.まだまだ美しい山道
>拡大画像 三坂峠の案内板(湯原側)
●首切り地蔵
釘貫川の谷にある「首切り地蔵」は、「山中一揆」で処刑された人々を供養する地蔵です。山中一揆は江戸時代中期に美作国で発生した全国的にも大規模と言える一揆です。美甘や新庄からは出雲街道を通って、湯原や蒜山からは大山道を通って多くの農民たちが久世や津山に向けて押しかけていきました。出雲街道でもご紹介していますが、それぞれの道沿いではそれぞれ地元のリーダー格の人物の首が晒された場所があります。この首切り地蔵がある地は「首切りこうげ」という地名もあり、人の往来が盛んな道沿いにおいて首を晒す場所になっていたのでしょう。

5207.首切り地蔵
 
>拡大画像 首切り地蔵の案内板
首切り地蔵を過ぎると、わずかながらも谷が広がりを見せ、正面には雨乞山が見えてきます。長かった三坂峠越えの道もいよいよ終盤戦です。

5208.雨乞山が正面に
 
●釘貫のたたら跡
釘貫へと下る谷の道はどことなく不自然で人工的な雰囲気があります。これは釘貫の谷がたたら製鉄の一大拠点として石が掘られ、土砂が流され、構造物が造られていた跡で、道からほんの少し外れて右側(東側)に入れば、大量のカナクソが落ちていて明確にたたらの跡であったとわかる場所もあります。その少し下にはたたら場でカナヤゴ様と呼ばれた金屋子神社や鉄山墓と思われる石造物が集まっている場所や、石垣が築かれた場所も見られます。このように釘貫の谷は全体が一大製鉄所のようになっていた場所ですが、後世に開発も全くなされなかったことから、それらの跡が草木に覆われながらも明確に残っている一大史跡と言えます。

5209.釘貫のたたら跡
 

5210.カナクソゴロゴロ
 
5212.カナヤゴ様と鉄山墓

5213.石垣も築かれている
 
>拡大画像 釘貫のたたら関連史跡の案内板
釘貫のたたら遺跡群を抜けて、わずかに平地が開けるようになると、最初の民家のところで道に舗装が復活します。いくら山越え区間とは言え、多くの人々(と牛馬)が往来した古道でこれほど長い間民家も田畑も見られない例は珍しいように思います。さらに北の県道326号を目指す道は迷うほどの道ではありませんが、途中に大山みちの案内看板も設置されています。

5213.久しぶりの民家

5214.大山道の案内板
●釘貫
釘貫ではこれまで辿ってきた三坂峠越えが県道326号に合流します。県道326号も旧久世町から大平峠を越えてきた道で、大山道として利用されてきた道筋の一つです。釘貫は先述したたたら製鉄だけでなく、2つの峠道の直前(直後)の交通拠点として栄えてきた谷口集落でもあります。5216の写真が集落の北東にある交差点ですが、右下(南東)には5217の写真の六地蔵や大日如来等が、左の橋のところには「右 久世」(左は読めず)と記された5215の写真の道標があります。

5215.倒れかけた道標
 

5216.県道326号との結節点
 
5217.地神・六地蔵・大日如来

5218.釘貫の街並み
 
左折して県道326号に出て、米子道と並んで旭川の谷へ緩やかに下っていきます。旭川にぶつかる手前、5220の写真の地点で左に入り、小川の集落へ入ります。この一帯の現在の地名は釘貫小川ですが、実質的にも歴史的にも、釘貫と小川の2つの主要な集落に分かれている地区です。

5219.県道326号を西へ

5220.左の道で小川へ
旭川の西岸にある小川の集落は旭川の東岸にあり、後述する西岸の土居とセットになって、役割を分担しつつ交通拠点となっていました。三坂上や釘貫もそうでしたが通りに沿って家屋が密集している姿は一般的な農村集落とは違う雰囲気を持っています。

5221.小川の街並み

5222.供養塔・お堂・地神
小川の集落を抜けると、比翼橋で旭川を渡ります。この付近では旭川のメインの太い流れが東に、サブの細い流れが西にあり、その間は中州のようになっています。山間部では珍しい地形ですが、西の流れは昭和9年の水害でできたそうで、中州になっている部分はかつては西岸の土居とつながっていました。そのため、中州にあたる部分にも家屋は多く存在しています。

5223.比翼橋で東の流れを渡る

5224.中州にも多くの民家

5225.鶴橋で西の流れを渡る
●義民の丘
鶴橋で西の流れを渡ると、禾津地区の中心である土居の街に入っていき、突き当たりを右折しますが、あえて左折して国道313号に出ると、すぐ先に湯原温泉スポーツ公園の入口になる交差点があります。ここからスポーツ公園へ上っていく途中に「義民の丘」が設けられ、山中一揆の犠牲者の慰霊碑が建てられています。山中一揆のリーダー格であった徳右衛門はここから南へ1kmほどの牧集落の人で、その徳右衛門が捕らえられたのがこの場所であったと言われています。

5226.山中一揆義民之碑
 
>拡大画像 山中一揆の案内板
●土居
禾津地区、中でも土居は旧湯原町内でも湯原温泉のある湯本地区に次いで発展している場所で、古い建築物はあまり残っていないとは言え、旧道沿いには宿場町にも似た雰囲気があります。江戸時代後期から大正時代にかけては、釘貫小川、そして土居でも牛馬市が開かれており、特に土居の牛馬市は百頭規模の取引があったという記録が残っているそうです。単純に数字を見ると大山どころか久世に比べても小規模に見えますが、その中継点においても牛馬市が開かれ、地域経済を支えていたということは紛れもない事実です。

5227.土居の街並み
 
禾津地区には国道313号には米子道の湯原インターが接続しており、現在もわずかながらも栄えている場所という雰囲気があります。また、真庭市コミュニティバス「まにわくん」の禾津バス停は、旧湯原町内の大山道沿いにおいて幹線の「蒜山・久世ルート」が通る唯一のバス停でもあり、公共交通機関を活用して大山道歩きをする者にとっても重要な場所です。バス停に隣接して飲み物の自動販売機やトイレもあります。

5228.湯原インター
 
5229.禾津バス停
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●地名、人名等の読み方
 ・禾津=いなつ
 ・山中=さんちゅう
 ・美甘=みかも
 ・雨乞山=あまごいやま
 ・大平峠=おおなるとうげ
 ・小川=こがわ
 ・比翼橋=ひよくばし
 ・徳右衛門=とくえもん

●参考資料
 小谷善守「昭和40年代にたどった大山道」 
取材日:2016.9.17/2017.5.21
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