江戸時代初期に江戸幕府が「五街道」の整備を国策として推進し、主要な街道に一里塚が設置されたりしたことはよく知られています。しかし、旧街道に道標が設置されたのがいつ頃か調べてみると、現存する道標のほとんどが18世紀後半以降、すなわち江戸時代の後期のものであることがわかります。
そのような中、美作国には元禄2年(1689年)の道標が10基以上も現存していて、森家時代の津山藩が他藩に先んじて道標の整備を推進していたことを感じさせます。
今回ご紹介する美咲町打穴下の道標はその「元禄道標」の一つで、現在の国道53号やJR津山線に該当する「津山往来」の道沿いにあります。ここは南から来て出雲街道や大山道の久世・大山方面を目指す道が津山往来から分岐していた場所なので、道標が設置されたものと考えられます。
道標には『東西南北』の方角が記され、東の面にのみ『是より左備前道』と案内内容が記されていますが、他の地名は案内されていません。
このあたりは古い道標だけに、石に多くの文字を目立つように彫るというハード面の技術も、主要道の名称だけでなく他の道も含めた具体的地名を情報として掲載した方が良いというソフト面の経験もまだ未熟だったという時代を感じます。そういった道標造りの経験がこれより約100年後に造られた現存する立派な石造道標に活かされたことでしょう。
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