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4.千本から三日月へ
千本宿を過ぎると、西は広大な田園地帯となっています。旧街道はその中を通っていたはずですが、圃場整備によって失われてしまっています。栗栖廃寺跡や依藤塚から西へ行くと、その田園風景を見渡しながら北の山沿いを行くことになります。1402の写真の地点を右折すれば北の山に大川稲荷神社がありますが、左折すると姫新線の線路の少し北、現在の道路とは少しずれた場所にもう一つ鳥居があります。当然、旧参道は鳥居をくぐる形になっていたはずで、おそらくこの鳥居の付近で旧街道と交差していたことでしょう。

1401.北の山沿いを行く
 
1402.大川稲荷神社の参道と交差

1403.大川稲荷神社

1404.現在の道と合わない鳥居
大川稲荷神社の鳥居からは田園の中を一直線に貫く道を歩きます。圃場整備によって古い道筋が消失していることがわかりますが、姫新線の線路や国道が近づいてくると緩くS字カーブを描き、そこを過ぎると古いものも含む民家が沿道に並ぶようになり、古い道筋が残っていると推測できます。明らかに幅員が狭い大宇登踏切を渡ると、国道を横断する形で直進の道に入ります。

1405.田園の中を一直線

1406.大宇登踏切を渡る
千本地区と次の栗町地区の間では山が栗栖川まで迫っていて、国道、鉄道、旧街道、そして栗栖川とも大きくカーブしています。旧街道の道沿いには六十六部供養塔があり、国道に復帰する直前にはかなり大きな古木があります。

1407.栗栖川の畔に六十六部供養塔

1408.古木を見ながら国道に戻る
国道を歩くのは200mほどで、1409の写真の地点を斜め右に入りますが、さらに300mほど先には播磨科学公園都市へのアクセス路となる県道44号が分岐する栗町交差点があります。その間には栗栖川沿いの小規模な親水公園やコンビニがあり、格好の休憩ポイントとなります。旧街道の道筋としては国道の東を並行する形で北上していき、栗町の古くからの集落もこちらの道沿いにあります。国道に復帰する手前には新しい団地があり、国道に復帰すれば広い歩道や駐車スペースも設けられており、播磨科学公園都市の開発に合わせて整備されたものと思われます。

1409.ここは右へ

1410.国道の東を北上

1411.新しい団地も造られている

1412.国道もよく整備されている
●栗栖里
続く鍛冶屋地区に入ると、また同じような駐車スペースがあります。そこにはこの辺りの地名である「栗栖」の由来が紹介されています。詳細は画像をご覧いただくとして、市町村名よりも下位の地名の由来を知ることは少ないので、こういったものを設置していただけると地理好きにはありがたいことです。また、このように古墳時代という極めて古い時代の記録が出てくるのは播磨国には奈良時代に編纂された「(古)風土記」が残っていることが理由です。出雲街道沿線で同様に「風土記」が残されているのは出雲国で、これから断片的に少しずつご紹介していくことになりますが、この2つの国については美作国や伯耆国と比べて、古代の歴史研究がかなり進んでいます。

1413.栗栖里の由来
>拡大画像 栗栖里(渋無し栗)の案内板
案内板のある駐車スペースから300mほどでまた斜め右への旧道があり、まもなく西栗栖駅前を通ります。西栗栖駅は無人駅ですが、誰でもいつでも利用できる無料駐車場が設けられ、ホームへの階段を避けられるスロープでバリアフリー対応もできているという、兵庫県内の姫新線らしく、ローカル線なりにできる限りの改善が尽くされた駅です。

1414.斜め右へ

1415.西栗栖駅
西栗栖駅周辺は宿場町でもなければ市街というほどの市街が形成されているわけでもありませんが、駅が設置されているだけあって沿道には家並みが続きます。相坂橋で栗栖川を渡れば、西栗栖小学校などがあり、相坂公民館前には西栗栖村道路元標も残されているなど、小規模ながらも地区の中心という雰囲気があります。そして相坂峠に向かう坂道が始まったところにある西法寺には、後述する三日月藩の乃井野陣屋の門の一部が移築されたという山門がありましたが、平成30年(2018年)に再移築され、乃井野の地に戻りました。歴史ある建造物が約140年という時を経て元の場所に戻るというのは稀有な例だと言えるでしょう。

1416.相坂橋を渡る

1417.相坂公民館付近

1418.西栗栖村道路元標

1419.山門のなくなった西法寺
集落の北端近くで変則的な四差路があり、旧街道の道筋は斜め左と思われますが、道がすぐ途切れて相坂峠には行けません。一方、直進も姫新線の踏切が廃止されて道が続かないので、斜め右を選択します。姫新線の線路をくぐったすぐ先を左折し、丘陵の中腹を行く県道44号に出ていきます。

1420.ここでは斜め右へ

1421.高さ制限1.5m!
県道44号を歩くのはごくわずかで、すぐに国道に戻りますが、その途中には荒神社があります。神社の脇には宝永7年(1710年)に建立された薬師が平成28年(2016年)に相坂峠の頂上付近から移設されてきています。

1422.荒神社

1423.移設された薬師堂
>拡大画像 相坂峠の薬師の案内板
国道に戻れば、国道の峠道らしい雰囲気になって、相坂峠に向けて上っていきます。播磨自動車道の建設工事や防災対策工事が行われており、2020年度に予定されている播磨自動車道の完成まで工事が続くと思われますが、歩道は確保されているので歩きにくさはありません。頂上付近には先述の薬師堂の跡や文化10年(1810年)の地蔵があり、少しは旧街道の峠道らしさを保っています。

1424.急な上り坂に

1425.播磨自動車道等の工事中

1426.薬師堂があったのはこの場所

1427.地蔵堂
●相坂峠
相坂峠の頂上から少し下ると小公園があり、トイレこそないものの休憩所と相坂峠を紹介する案内板があり、隠岐に流される後鳥羽上皇が歌を詠んだ故事が紹介されています。なお、名もある峠らしい峠ですが、案内板でも触れられているように、相坂峠は平成の大合併の前ですら市町村の境ではなく、たつの市(旧新宮町)はあと少し続きます。

1428.相坂峠の小公園
>拡大画像 相坂峠の案内板
つい最近になって整備されたばかりの歩道を下り、下りきったところで左折して県道154号で下莇原地区に入ります。ここで栗栖川に代わって登場する角亀川は千種川に向けて下っていて、峠を越えたことがはっきりわかります。旧街道の道筋は角亀川の右岸に続いていたと思われますが、1431の写真の地点を左折して姫新線をくぐり、またすぐに右折で角亀川を渡って左岸にある集落に寄ってみます。

1429.整備されたばかりの歩道

1430.左折で下莇原へ

1431.もう一度左折してみます
●下莇原集落
下莇原地区の左岸の集落には狭い道沿いに和同開珎が発掘されたという畑、次いで相坂峠の薬師や地蔵よりも古い享保8年(1723年)の地蔵が祀られた地蔵堂があります。また、再び姫新線と角亀川を渡って右岸に戻ったところには自然石の大きな常夜燈が目立っており、いずれにしても旧街道沿いに多く見られる史跡よりもさらに古い歴史を感じさせるものです。この先、左岸に道は続いていませんが、後述する後鳥羽上皇ゆかりの「弓の木」も左岸にあることから考えて、記録に残る右岸の出雲街道よりも古い道筋が左岸にあったのではないかと想像させてくれます。

1432.和同開珎が発掘された畑

1433.享保時代の地蔵も

1434.自然石の常夜燈
下莇原の集落を通り過ぎると、国道には戻らず畦道をしばらく歩きます。旧街道の道筋ではないと思われますが、国道に歩道のない区間をパスできるありがたい存在です。この畦道から国道に戻ったところからは国道に歩道が復活し、まもなく佐用町(旧三日月町)に入ります。

1435.畦道を行く

1436.佐用町に入る
佐用町に入ると角亀川の対岸に弓の木を見ながら、400mほど国道を北上します。三日月宿への道が分岐する直前には地蔵堂があり、一般的に道沿いで見かける地蔵よりかなり立派な地蔵が祀られています。

1437.対岸に弓の木

1438.地蔵堂
1439の写真の地点で斜め右への分岐があり、そこから三日月宿へ入っていきますが、これまでご紹介してきた弓の木に寄るにはここを左折し、少し後戻りするような形でS字を描くように南下していきます。S字のちょうど一番下にあたるところには獣害防止柵がありますが、容易に開けられるタイプのものです。

1439.左に弓の木、右に三日月宿

1440.獣害防止柵を開けます
●弓の木
そうして到着した弓の木はムクの古木で、隠岐に配流される後鳥羽上皇がこの木に弓を掛けて休息されたという伝承があります。脇に地蔵と記念碑がありますが、昭和14年(1939年)に建てられた記念碑には「後醍醐天皇」と彫られています。

1441.弓の木

1442.六地蔵

1443.地蔵と記念碑
>拡大画像 弓の木の案内板
●三日月宿
1439の写真の地点に戻り、斜め右に入れば三日月宿です。まもなく古民家に挟まれた1445の交差点を過ぎれば、本陣織田家があります。織田信長の弟である織田信包の子孫がこの地に定住して本陣を務めたため、織田木瓜の家紋が見られます。

1444.本陣付近の街並み

1445.古民家も多い

1446.本陣織田家の織田木瓜
本陣から200mほど、三日月宿の街並みが続く中にある明光寺には三日月出身にして、張作霖爆殺事件の首謀者と言われる河本大作の碑があります。戦前の満洲で暗躍した関東軍の軍人は悪く言われがちですが、地元ではこのように顕彰されています。1448の写真の地点で道は突き当り、右の山沿いの道を選びます。そこから400mほどで福仙寺とたくさん並んだ赤い鳥居と石段がよく目立つ福森稲荷神社があります。

1447.河本大作の碑

1448.突き当りは右の山沿いへ

1449.福仙寺と福森稲荷神社
さらに200mほどで県道433号と本郷川にぶつかります。すぐ左に国道の桜橋交差点がありますが、あえて右折して上流側の橋を渡れば、塀で囲まれた極めて立派な古民家が見られます。1451の写真の交差点では、斜め右の旧道で現在の三日月の中心と言える市街に入っていき、一方、国道沿いには三日月駅があります。この付近で国道からも鉄道からもよく見える三方里山の三日月の植え込みは、三日月の町のシンボルです。

1450.ものすごい古民家も

1451.斜め右に入って市街へ

1452.三日月駅

1453.三方里山の三日月
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●地名、人名等の読み方
 ・相坂=あいさか
 ・乃井野=のいの
 ・千種川=ちくさがわ
 ・下莇原=しもあざはら
 ・佐用町=さようちょう
 ・角亀川=つのかめがわ
 ・後鳥羽上皇=ごとばじょうこう
 ・後醍醐天皇=ごだいごてんのう
 ・織田信長=おだのぶなが
 ・織田信包=おだのぶかね
 ・張作霖=ちょうさくりん
 ・河本大作=こうもとだいさく

●参考資料
 たつの市立埋蔵文化財センター図録10「因幡街道 〜山陰と山陽を結ぶ道〜」
 佐用ハイキングコース選定の会「佐用ハイキング34コース」

●取材日
 2014.8.26
 2015.5.20
 2017.2.28/9.4
 2018.1.23/5.22
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