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6.佐用から万能峠へ
佐用駅の裏、駅南公園からも東の山沿いに旧街道の道筋が続きます。現在の国道や市街からは外れていても秀谷、山平、大坪と集落は続き、旧街道らしく古くて立派な家屋も見られます。基本的には一本道ですが、大坪集落に入るところにある1601の写真の交差点では道なりに進むより斜め右で集落内に入った方が雰囲気の良い道を歩けます。

1601.斜め右で大坪の集落へ

1602.大坪の集落内
大坪集落を過ぎると大坪踏切で姫新線を渡り、佐用川沿いの道に出ると左折、またすぐに右折して大坪橋で佐用川を渡って右岸に移ります。佐用川は先述した大水害を受けて全面的な河川改修が行われており、この辺りの橋はすべてが新しく架け直されています。佐用川を渡ればすぐに国道が横切っており、ここを左折して国道を歩くことになりますが、直進していくと正面やや右の低い丘に佐用城跡(福原城跡)があります。観光名所になるほど本格的な城郭遺構が残っているわけではありませんが、少しでも中世城郭をかじっていれば、郭や堀切の跡らしきものを確認することはできます。

1603.大坪踏切で姫新線を渡る

1604.大坪橋で佐用川を渡る

1605.旧街道は左折、佐用城跡は直進

1606.佐用城跡
>拡大画像 佐用城跡(福原城跡)の案内板
佐用川を渡ってから旧上月町に入るまでの間、真盛地区において記録に残る旧街道は国道がほとんど上書きしています。左右を見ると旧道や旧街道の痕跡はわずかに残っていますが、あまり面白い道ではありません。そこで、ここでは大坪橋から600mほど南下した1607の写真の地点を右折、新しい住宅が建っている1608の写真の地点を左折し、山沿いの道を歩くことにします。

1607.ここを右折すると…

1608.住宅の間から古道に入れる
●真盛地区の古道
真盛地区の集落の裏の微妙に高い位置には標高100mの等高線に沿うようにして、緩やかに曲がった未舗装の道が1km近く続きます。途中には金刀比羅神社もあって地元の方々の通行もあるようで、夏でもきれいな状態の非常に気持ちの良い道です。先述したように旧街道として記録されている道筋は国道沿いですが、この道沿いにも地蔵堂や薬師堂、そして安永7年(1778年)の供養塔が見られ、より古い出雲街道の道筋なのか、こちらも古くから利用されてきた道筋であると言うことはできます。

1609.山沿いの古道

1610.金刀比羅神社

1611.地蔵堂と供養塔
道が舗装道路になると真盛の集落に入っていきます。道は細く入り組んでいてどう進むべきか迷いますが、1612の写真正面の蔵の裏にある細道を歩いたりするのも楽しいでしょう。国道沿いにはこの付近でよく目立っている建設基礎工事の会社があり、そこに向けて集落を抜けていく形となります。

1612.真盛の集落内

1613.こんな細道も楽しい

1614.ここで左折

1615.基礎工事の会社前で国道へ戻る
500mほど国道を南下して旧上月町に入ると、国道が大きく右カーブする手前に柵の切れ目があり、そこからは旧街道の名残と思える道を通ることができます。再び国道に合流する地点には「壹本松」という旅館があります。立地や名称からして旧街道時代の旅籠の名残の旅館かもしれないと考えていましたが、実際にこの旅館に宿泊された方にお尋ねしてみたところ、そうではなかったとのことでした。しかし、町の中心から大きく外れ、現在の交通結節点に近いわけでもないこの場所において、旅館が立派に営業を続けているのは貴重な例だと言うことはできます。

1616.柵の切れ目から

1617.旅館壹本松
旅館のすぐ先には肘松の一里塚跡がありますが、国道からは太陽光パネルに遮られてほとんど見えなくなっています。出雲街道を歩かれている方々も見逃したり、見つけるのに苦労したりされる方が多く、かく言う私も恥ずかしながら2度見落としているという要注意の史跡です。1618の写真の地点で国道の南側の路肩が不自然な形になっているのは旧街道の痕跡と思われますが、草が伸びてここからは入りづらいので、1619の写真の太陽光パネルの敷地に入らせていただき、その裏に回るのが良いでしょう。

1618.古道の痕跡らしきものが南に

1619.太陽光パネルの裏!
●肘松の一里塚跡
そうして辿り着いた肘松の一里塚跡は史跡としてキッチリと保存された一里塚の史跡で、昭和57年(1982年)に植え替えられた三代目の松と石碑があります。ごくわずかの区間ですが、道も手入れされているのも好印象です。旧街道には必ず設置されている一里塚と言っても、このような形で保存されているところは案外少なく、姫路を出てから初めての一里塚らしい一里塚の史跡です。

1620.肘松の一里塚跡
続く早瀬地区では川に近い平地を行く国道に対し、集落は山沿いの少し高い位置にあります。旧街道の道筋は明確ではありませんが、1621の写真の地点で鋭角に右折し、道なりに進めば文政2年(1819年)の地蔵付き大乗妙典供養塔がある早瀬公民館に至ります。公民館から西では旧街道と判断して間違いなさそうな道が集落の少し高い位置を通り抜けています。

1621.鋭角に右折

1622.早瀬公民館前の供養塔など

1623.早瀬の集落内

1624.少し高い位置を行く
早瀬の集落を抜けて佐用川沿いを200mほど進むと、前方には上町交差点から重複してきた国道373号と別れる上月三差路交差点の案内標識も見えてきて、上月の市街が近づいてきます。しかし、旧街道の道筋は1625の写真の交差点で斜め右へ分岐する坂道に入り、数度のカーブで小さな丘を越え、1626の写真の交差点を右折して上月の市街に入るというコースになっています。現在の道路網から見れば不自然に感じられますが、この丘は現在の国道を通すために大きく削られており、かつては険しい地形だったことが想像できます。そして交通の要所の要害だけに、戦国時代にはこの丘に丸山城という城が築かれていたそうです。

1625.斜め右の坂道へ

1626.ここは右折
上月は宿場町ではなく、店舗や公共施設は佐用川沿いの駅周辺に集まっているため、旧街道と思われる道沿いには市街というほどの市街は形成されていません。あっさりと集落を通り過ぎると、上上月集会所の北の山に上月八幡神社があり、そこから上月支所や上月駅のある国道へ下っていきます。

1627.上月の旧街道沿い

1628.上月八幡神社
国道まで下ると佐用町の上月支所などがあり、小さいながらも町の中心という雰囲気です。ほたる橋という橋を渡ったところにある上月駅は無人駅ですが、農産物直売所が併設されていて、立派な駅舎が建っています。また、駅前には全国的にも珍しくなってきた古くからの駅前旅館が健在です。駅前の案内図にもありますが、出雲の戦国大名である尼子氏再興のために転戦した尼子勝久と山中鹿ノ介主従が最後に籠城した上月城跡もこの近くにあります。

1629.上月駅

1630.駅前旅館が現役
>拡大画像 上月の名所案内板
しばらく国道を歩いて上月の市街を出て、金屋橋で幕山川を、次いで力万橋で大日山川を渡った先で旧道に入ります。集落内には西庄小学校の跡があり、その側には道路元標が立っています。

1631.斜め右で旧道へ

1632.西庄村道路元標
力万の旧道から国道に戻り、大日山川を渡る須安橋の手前では右側(北側)に常夜燈が見えたりしますが、旧街道はやや南側を通っていたそうです。とは言え、大日山川を渡る橋がなく、道が続かないため、ここは国道を歩くことになります。古い家が国道に対して少し斜め向きに建っていたりするのが旧街道の痕跡を示しているとは言えるでしょう。

1633.古い家は少し斜め向き

1634.須安橋を渡る
続いて姫新線の力万踏切を渡り、さらに600mほど国道を歩いて次は西大畠地区に入ります。最初の樫ヶ淵集落に入る手前では国道から斜め右への分岐があり、その道は大日山川にぶつかってすぐに途切れてしまいますが、そこには河原に下りる梯子が置いてあり、その対岸にはやはり河原に下りるための道が設けられています。ひょっとしたらかつて旧街道が大日山川を徒歩で渡っていた名残なのかもしれません。

1635.斜め右に行って

1636.対岸と結んでみれば…
大日山川を渡った先の樫ヶ淵集落では旧街道は国道の南側を通っていたそうですが、うまく集落の中を抜けられる道はないので、ここでは古い家屋も多く、雰囲気の良い国道の北側の道を通ります。1639の写真の地点を右折して向河原橋でまたも大日山川を渡り、次は判官集落に入りますが、間違いなく人物に由来する地名に、どのような伝承があるのか気になるところです。この付近では旧街道の道筋からはやや北寄りに外れたコースをご紹介していますが、力万地区の旧道を抜けてからほとんど国道ウォークが続いているため、ここは田舎らしい道や集落を縫いながら進んでいく道を選択しています。

1637.旧街道は南の方ですが…
 
1638.北の道も良い雰囲気

1639.ここを右へ行ってみます
 
1640.判官の集落内
なおも大日山川に沿って緩やかに上っていきますが、上月から3km以上歩いても山道らしい場所がなく、わずかな間隔で集落も続いているので、このまま岡山県に入っていけそうな気すらします。その展開が変わるのは1642の写真の地点からです。目印は国道のおにぎり標識で、この地点では字が読み取れませんが、兵庫県最後の稗田集落の手前には「もうすぐ岡山県」と記された看板があります。

1641.大日山川に沿った細道
 
1642.ここを左へ
●万能峠の峠道(播磨側)
細い小川に沿ってしばらく西へ行くと、斜め左への分岐があり、そこには「出雲街道」と記された看板があります。そこからようやく峠に向かっていることを意識できるような上り坂となります。なお、この道は明治時代の道筋で、江戸時代の道筋は昭和11年(1936年)に開通した姫新線の線路沿いにあったそうですが、狭い谷の田畑が耕作放棄地に変わると同時に途切れます。

1643.出雲街道の看板からスタート

1644.姫新線の下が江戸時代の道

1645.最初のうちは歩きやすい
この辺りではかつて石灰岩の採掘が行われていたそうで、途中にはその跡である洞窟も見えます。足場も悪く、かなり深そうなので、近づきすぎないようにしましょう。現在は県境の往来に使われることのない道を歩いているので、県境を示す道路標識を見ることはできませんが、代わりに姫新線の線路とぴったり沿うところでJRの神戸支社と岡山支社の境界を示す標柱が見えます。

1646.石灰岩を採掘した穴
 
1647.JRの支社境界
姫新線に沿う辺りからは雑草が伸びて道の状態が悪くなってきます。その先に万能池という溜池があるためか、時に草刈りが行われていますが、当てにできないくらいの頻度です。このような道を歩くことに自信のない方は国道を歩くのも一つの手ですが、稗田集落から先には歩道がなく、急カーブも連続する割に交通量の多い峠道を歩かなければならないので、交通安全にはくれぐれも注意が必要です。

1648.道の悪いとき
 
1649.万能池
万能池が見えた先でもう一度「出雲街道」の看板があり、そこを右折すればいよいよ最後の上りですが、ここからは地図でも道路扱いされていない道で、初めて訪れたときに1651の写真のような状態だったのを見かねた私がここを訪れるたびに少しずつ草を刈っていたほどでしたが、平成30年(2018年)6月には草が刈られていたのが確認できました。
ここから萬ノ乢までの中間には左側の崖が崩れてしまっている場所もあり、この道が放置されてきたことを象徴しているかのようですが、もう少しで峠の頂上が見えてきて、そこからは土居の皆様が道を整備してくれています。なお、このように荒れていることも多い道ですが、2つ目の看板から萬ノ乢までの距離は300mほどなので、山道に慣れた方であれば少々道が荒れていても耐えられる距離でしょう。

1650.平成30年6月はこの状態ですが…
 
1651.こんな惨状だったことも

1652.崖崩れ箇所
 
1653.劇的にきれいになる
●万能峠(萬ノ乢)
ようやく峠に達すると、そこには「萬ノ乢」と大書された標柱が立っていて、国境に辿り着いたことを感じさせます。脇には宝暦14年(1764年)の題目塔もあり、旧街道の峠という雰囲気が強く感じられます。播磨側の荒れた峠道を苦労して上ってくれば、その感慨もひとしおです。また、中国地方では峠のことを「乢(たわ)」と呼ぶことが多く、その辺りからも中国地方に入ったことを実感させてくれます。

1654.万能峠(萬ノ乢)
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●地名、人名等の読み方
 ・万能峠=まんのとうげ(まんのたわ)
 ・上月=こうづき
 ・真盛=さねもり
 ・尼子勝久=あまこかつひさ
 ・山中鹿ノ介=やまなかしかのすけ
 ・幕山川=まくやまがわ
 ・大日山川=おおびやまかわ
 ・力万=りきまん
 ・西大畠=にしおおばたけ
 ・樫ヶ淵=かしがふち
 ・判官=ほうがん
 ・稗田=ひえだ
 ・土居=どい

●参考資料
 佐用ハイキングコース選定の会「佐用ハイキング34コース」

●取材日
 2014.9.2
 2015.10.9
 2016.5.31/10.9
 2018.1.23/6.13
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