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8.土居から楢原へ
●土居一里塚
土居宿を出て山家川を渡り、国道に復帰する直前に一里塚があります。旧街道に整備された一里塚も現在は姿を消しているものが多い中、この一里塚ではいったん伐採された北塚の松、南塚の榎が昭和47年(1972年)に植えなおされており、それから40年以上の歳月が江戸時代以来の姿を復活させています。

2017.土居一里塚

2018.北の松塚

2019.南の榎塚
>拡大画像 一里塚の案内板
土居宿を出ると、しばらくは山家川に沿った国道を歩いていきます。2020の写真で山が削られていことから想像できるように、これは新しい道筋で、旧街道は国道沿いにある供養塔のあたりから少し山の中に入っていたようですが、現在では通行できません。

2020.しばらく国道を行く

2021.供養塔
竹田地区に入り、最初の落合集落では西側の山沿いに旧街道と考えて間違いない道を発見できますが、どこから入ってみても柵が設置されるなどして進入または通り抜けができません。平成21年(2009年)の台風9号では佐用だけでなくこの辺りにも大きな被害を与えたため、河川改修や土砂災害防止の工事が行われており、供養塔が真新しい土台に立て直されているのも発見できます。次の杉ヶ市集落では集落内を通り抜ける道が存在しますが、これは新しい道だそうです。作東インターや作東工業団地の開発と関連してか、田園も整然と整備されており、それはそれで美しい眺めですが、旧街道らしさはありません。

2022.左の土手の上と思われますが…

2023.移設された供養塔

2024.杉ヶ市集落内の道
上福原地区に入れば2025の写真の地点を左折し、またすぐに右折すれば国道の一本南に旧街道が復活しますが、地図上では道であっても電気柵に阻まれて迂回を強いられる場所もあります。旧街道の風情を感じる間もなく国道に戻されることの繰り返しで歯がゆく感じますが、上福原地区の最後には史跡が集中しています。そこだけを歩こうとすれば、出雲街道のより古い道筋である杉坂峠方面への道路(県道365号)との交差点のすぐ東側から南に入れば、見どころの多いところのみを歩けます。

2025.上福原地区に入ると左折

2026.旧街道が復活しますが…

2027.電気柵に阻まれる
電気柵を迂回した先に戻れば、右前方に見える小高い丘に天王山城跡があります。2028の写真の地点で道は左にカーブしていますが、正面へ未舗装の道路もあります。いずれも旧街道の道筋と思われ、六十六部供養塔と地蔵堂が背中合わせになって、それぞれの道の方を向いているのが珍しいです。正面の土道はすぐに途切れるので、舗装道路の方へ進みます。

2028.天王山城跡付近

2029.六十六部供養塔

2030.地蔵堂
背中合わせの供養塔から小さな集落を通り抜け、城近坂と呼ばれる坂を下って国道に戻ります。下る途中には津山元標六里の里程標があります。明治の初めに津山に設けた元標を基準に整備されたこの里程標は、西側(特に勝山まで)では多く残っていますが、東側はここのみです。

2031.城近坂を下る

2032.津山元標六里
国道に戻ったところには南東から下ってきた城近坂とその先の警固屋坂を案内する新しい道標がありますが、警固屋坂の方はここで接続するもう一つの坂道ではありません。国道を100mほど西へ行き、国道が地形に沿ってカーブする地点から斜め左に分岐する坂道に入ります。

2033.新しい道標

2034.100mほど西で左の坂へ
江見市街東方の小さな丘越えは山家川と国道が迂回しているだけあって、かなり急な坂です。頂上には北向地蔵尊があり、またすぐに警固屋坂を下って江見の市街に入っていきます。下りきったところにある商店の直前には江見の一里塚がありました。

2035.北向地蔵尊

2036.警固屋坂を下る

2037.古そうな石造物も

2038.江見市街へ下る
旧作東町の中心地区である江見では、国道の一本南側に旧道と思われる道があり、古くから栄えた街という感じがします。少し南に入って作東公民館まで行けば、その前には移設された道標も展示されています。一方、北の国道沿いは新しい市街で、江見商業高校の閉校などの要因を受けてやや寂しい感じがしますが、それでも営業している店舗が数多く集まっている場所は久しぶりです。

2039.江見の旧道沿い

2040.作東公民館前の道標(移設)

2041.江見の国道沿い
江見市街を過ぎると吉野川を渡ります。旧道の橋と国道の橋が100mも離れずに並んでいて、名前はどちらも同じ「大還橋」です。続いて姫新線の江見踏切を渡れば、目の前に国道があり、そこに復帰していくような形に見えますが、国道の直前で左折して用水路沿いの道に入ります。この付近では旧街道の道筋は国道の南にあるその旧道よりもさらに南にあり、わずかな区間ではありますが、街の通りの裏に旧街道がひっそりと残されていることがわかります。

2042.新旧の大還橋

2043.国道の直前で左へ

2044.旧街道の道筋はひっそり残る
国道に戻ればまもなく美作江見駅で、ここも美作土居駅と同じく古い木造駅舎を持ち、CMのロケ地にもなった駅でもあります。美作国(岡山県北部)には懐かしい雰囲気を残す駅や鉄道施設が多く、津山駅にある蒸気機関車時代からの扇形機関車庫を活用した「津山まなびの鉄道館」や、美作千代駅等の古い木造駅舎を見学するイベントなどが人気を集めています。

2045.美作江見駅

2046.姫新線全通45周年記念碑
旧街道は美作江見駅の一つ東側にある2047の写真の交差点を北に入ります。国道から分岐してすぐのところにある今在家駅前作業場にはこの道が出雲街道の道筋だったことが記された貼り紙が掲出されています。またすぐに六地蔵があり、側に流れる水路沿いには一貫清水という清水場の史跡もあります。

2047.旧街道はここを右折

2048.すぐに六地蔵がある

2049.一貫清水
その先では案内標識のない交差点をいくつも通過していくことになり、方向感覚も狂いがちなので、道を間違えないように注意が必要です。2050の交差点は写真中央の道に入り、無縁仏などを見ながら北上していきます。その先で短い坂道を上り下りすると、左へ90度以上カーブするような形で道なりに進んでいき、2052の写真の地点を右に入ります。厳密な旧街道の道筋とは違うようですが、この付近では中国自動車道の建設によって古道の道筋も失われがちで、現在でも歩行可能な道を選んでいくとこのような形になります。
不安を感じるなら史跡が多い楢原に至るまでは迂回するのも、その場合、平福地区まで国道を西進した後、右折して県道354号に入っていけば、わかりやすい道順で楢原に行くことができます。

2050.ここは真ん中へ

2051.道なりに左へ大きくカーブ

2052.ここで右

2053.中国道を目指して北へ
旧街道の道筋は概ね中国自動車道の北にあったそうですが、道は荒れているので、少し不気味な「佐用51」のトンネルは無視、「佐用52」のトンネルをくぐって中国自動車道の北の側道に出ます。美作市(旧作東町域)の中国自動車道は運転していると坂やカーブが多いのが気になりますが、こうしてその脇を歩いていれば坂もカーブも緩く感じるのは不思議なところです。

2054.中国道の側道

2055.右折して「佐用52」をくぐる
●峠の地蔵堂周辺
中国自動車道の北に出て小さな丘を一つ越えると、「峠の地蔵堂」があり、奈良時代に行基が西国行脚の際に建立したという伝承のある地蔵が祀られています。脇には宝篋印塔があり、付近には小祠や石造物も見られます。さらに西に進んでいくと、常夜燈や六十六部供養塔があり、今後(特に真庭市や真庭郡内で)よく見られる地神も初登場します。中国自動車道の建設時に移設されたのか、史跡の集まり方がやや不自然にも見えますが、大規模な建設事業に際しても史跡をしっかりと残してくださったことはよくわかりますし、何よりもすぐ脇に高速道路が貫く中でも古道歩きの気分が十分に楽しめる道となっているのがありがたいところです。

2056.峠の地蔵堂と宝篋印塔

2057.常夜燈

2058.供養塔や地神
峠の地蔵堂から700mほど西進すると、中国自動車道からわずかに離れて古道の道筋がそのまま残されていると思われるカーブに差し掛かり、その先には少し高い位置に地蔵堂があります。

2059.古道そのものと思われるカーブ

2060.地蔵堂
楢原パーキングエリアの北には、美作国の一宮である中山神社の主祭神「鏡作命」の降臨地がありますが、2061の写真に見える分岐点の看板は支柱も倒れ、私が付近の木に立てかけておいたものです。残念ながらこういった状況は出雲街道ではよくあることですが、地元の方も、街道歩きに来た皆様方も、こうした状況を見かけたら可能な範囲で直していただきたいと思います。ともあれ、ネット上でも公開されている「美作市出雲街道マップ」によると、楢原付近では北の山沿いにも史跡が多くあるそうで、ご紹介している近世出雲街道の道筋よりも古い道筋が北にあったことを想像させます。

2061.鏡作命降臨地は右ですが…

2062.鏡作命降臨地
久しぶりの集落である神宿集落は鏡作命が降臨した「神宿る地」が地名の由来になっており、立派な民家の敷地内に「中山太神宮」の社があったり、交差点の脇に道祖神などの石造物が数多く置かれたりしている様子が見られます。楢原上町上というバス停のところで県道354号を横断すると、楢原の街に入っていきます。

2063.民家の敷地に中山太神宮

2064.神宿郷の石碑群

2065.楢原上町上バス停から楢原の街へ
●楢原
楢原の街に入ると、まず「人舛跡」という史跡に迎えられます。これは楢原に出入りする参勤交代の行列の人数を確認するために設けられているものです。距離が比較的長い土居宿と勝間田宿のほぼ中間にある楢原は休息地として宿場町に準ずる街並みを形成しており、現在でも国道から離れているためか、新しい店舗等もなく、ある意味これまで見てきた宿場町よりも雰囲気を残しているような感じです。中央部には播磨国の伊勢でも見た立場跡、西側の郵便局付近にはもう一度人舛跡と一里塚の跡があります。

2066.人舛跡(東側)

2067.立場跡はこの付近

2068.人舛跡(西側)と楢原の一里塚跡
西の人舛跡と一里塚跡を過ぎ、JA楢原支店前バス停のところの交差点では直進するのが旧街道の道筋のように見えますが、しばらく先からは圃場整備によって旧街道が失われ、本来の道筋からむしろ離れていってしまう結果になるので、斜め左を選択します。中国自動車道を乗り越えてその南の集落に行くために造成されたと考えられる眺めの良い坂道を上り、またすぐに下って田園風景の中を進んでいきます。これらの要因により、史跡も消失してしまったものが多いのか、2071の写真の巨木の下に古い墓石があるのが見られる程度です。この付近の地名は「火の神」といい、県道388号を横断すれば、小規模ながらも枝の伐採された巨木が印象的な火之神社があります。

2069.斜め左へ

2070.造成された坂道

2071.印象的な巨木

2072.火之神社
●笠懸の森
梶並川を渡る直前には「笠懸の森」という史跡があり、周囲の古木に護られるようにして記念碑などが立ち並んでいます。ここは後醍醐天皇が元弘の変で隠岐に流される際、梶並川が増水して渡ることができなかったため、一時休息され、警護の武士たちが笠懸の武技を見せて天皇を慰めたという伝承の地です。梶並川は美作市西部の谷筋を形成する、それなりに大きな川ですが、現在では「笠懸橋」で簡単に渡ることができ、難所らしさは感じられません。

2073.笠懸の森
>拡大画像 笠懸の森の案内板
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●地名、人名等の読み方
 ・楢原=ならはら
 ・山家川=やまやがわ
 ・作東=さくとう
 ・大還橋=だいかんばし
 ・千代=せんだい
 ・今在家=いまざいけ
 ・勝間田=かつまだ
 ・湯郷=ゆのごう
 ・行基=ぎょうき
 ・鏡作命=かがみつくりのみこと
 ・後醍醐天皇=ごだいごてんのう
 ・梶並川=かじなみがわ

●参考資料
 巌津政右衛門「岡山の道しるべ」
 片山薫「岡山の出雲街道」
 美作地域歴史研究連絡協議会「美作の道標 元禄道標と津山元標」
 美作地域歴史研究連絡協議会「美作の道標と出雲往来一里塚」

●取材日
 2014.9.23
 2015.5.3/10.9
 2016.5.3/10.9
 2018.1.23/4.22/6.13/12.8
 2019.4.28
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