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10.勝間田から兼田橋へ
滝川を渡る勝間田大橋のところで石畳風の塗装が終わり、勝間田宿が終わります。滝川を渡ってすぐ右(北)には勝間田神社があり、勝負事や合格祈願に縁起の良い神社として人気も上昇中です。

2151.滝川を渡る

2152.勝間田神社
勝間田神社から300mほどで旧道が終わり、久しぶりの国道に復帰します。美作、勝央の2つの町を過ぎ、これから美作国最大の都市である津山市に入っていくため、前に国道から別れた江見あたりに比べれば交通量は明らかに増えており、田舎なりに沿道の店舗も増えてきています。この辺りは国道が旧街道の道筋をほぼそのままなぞっていますが、そのような中でも泣清水など歴史ある街道であることがわかる史跡はところどころに見られます。

2153.久しぶりの国道復帰

2154.泣清水
>拡大画像 泣清水の碑
泣清水を過ぎると国道の南側には五厘田池という池が見えてきます。その付近に五厘田の一里塚があったそうですが、現在では痕跡も残されておらず、詳細な場所は不明です。2146の写真の交差点では斜め右に曲がって西勝間田駅方面に入るのが旧街道で、大峯役小角供養塔などが見られます。

2155.斜め右へ

2156.大峯役小角供養塔
黒坂地区は旧道で通り抜け、また国道に戻る場所には高取小学校跡があり、次いで高取八幡神社があります。この周辺は昭和の大合併まで高取村という自治体でしたが、なぜか東の黒坂地区と西の池ヶ原地区に分離して、それぞれ勝央町と津山市に合併しています。その結果として、地区の中心であったと想像できる場所が市町境のすぐ近くにあるという状況が現在も続いています。

2157.高取小学校跡

2158.高取八幡神社

2159.津山市に入る
>拡大画像 高取八幡神社の案内板
この辺りの国道には、旧道への分岐が非常に多いのが特徴で、国道を挟んでジグザグに旧街道の流れを汲む旧道が続きます。古い民家は国道に背を向け、玄関が旧道に面していることが多いです。特に美作大崎駅のある福力地区に入ると長く旧道が続き、駅付近ではちょっとした市街が形成されています。この周辺は瓦の製造に適した粘土質の地質であったため、瓦の製造が盛んだったという歴史を持っており、廃屋が多いのが目につくのも瓦製造業(とそれに関連する商業等)の盛衰を物語るものだと言えそうです。また、美作大崎駅北側の福力荒神社はマムシ除けの神様として知られており、旧正月の大祭のときには現在でも非常に多くの人が集まります。祀られているのは須佐之男命だそうです。

2160.このような分岐が多い

2161.美作大崎駅付近

2162.福力荒神社
国分寺地区への旧道が分岐する地点では古い石塔があり、そこには「出雲街道 一里塚」という標柱が最近になって立てられています。この付近の道端には石造物や小社が目につき、古い家屋はほとんど残っていないものの旧街道らしさを残したところだと言えます。

2163.一里塚跡

2164.道端には石造物群
さらに進んでいけば、左(西)には足腰の痛みに霊験があると言われる「光伯地蔵」の地蔵堂があります。現在でも多くの信仰を集めているため、お堂も新しく建て替えられており、そこには草鞋が掛けられています。続いて右(東)に見られるのは後醍醐天皇ゆかりの伝承を持つ「夜泣き地蔵」で、地蔵堂の前には念仏供養塔や常夜燈、六十六部供養塔も並んでいます。

2165.光伯地蔵堂

2166.夜泣き地蔵
大渡橋で広戸川を渡って200mほど行った2167の写真の付近は史料や絵図から一里塚があったと推定される場所です。現在、この場所には何もなく、地元によって立てられた標柱はつい先ほど見たばかりなので、一里塚があった場所について意見が分かれているようですが、ここでは両論併記としておきます。その先も旧道らしい雰囲気が続きますが、姫新線の線路とぴったり並行する辺りからは線路の辺りが旧街道だったそうで、線路の反対側には踏切もないのに墓地があります。約2kmも続いた旧道が終わり、国道に戻る地点には松尾芭蕉の句碑もあります。

2167.この付近に一里塚があったはず

2168.旧道らしい雰囲気

2169.線路の向こうに墓地

2170.芭蕉句碑
国道に戻ってまたすぐに斜め右への分岐があり、旧道に入ります。今までの旧道に比べて怪しい雰囲気で、現れるのも産廃回収業者にラブホテル2軒という状況でやっぱり怪しいですが、ご覧の皆様に自信を持って歩いていただくためにあえて写真を掲載します。ともあれ、ラブホテルの先の2173の写真の交差点を左折して、丘の上の河辺上之町へ坂道を上っていくのがれっきとした出雲街道の道筋です。

2171.ここも斜め右

2172.旧街道の雰囲気とはほど遠い

2173.ここで左折

2174.河辺上之町への上り坂
●河辺上之町
坂道を上れば河辺上之町に入りますが、集落の東西の入口には城郭でよく見られる防御施設の「桝形」が残されています。案内板に記載されているように、そもそもこの集落自体が江戸時代初期に意図的に丘の上へ移転させられた集落であることからも、津山盆地に入る手前の最後の丘が地理的に津山城下町の防衛の要所として重視されていたことが想像できます。いかに平和な江戸時代と言っても、大名は軍事的な視点を持って自らの領国を運営していたことがよくわかります。また、町の中央付近と西の桝形の脇には道標も残されています。

2175.桝形(東側)

2176.道標も残されている

2177.道標(西側)
>拡大画像 桝形の案内板
河辺上之町の集落を抜けて再び国道に出会うと、旧街道の道筋はそのまま直進で下り続けますが、姫新線の線路に踏切がないので、右折で国道の橋で姫新線を乗り越え、階段で下っていくという順番で進みます。河辺地区は今や津山市でも最大の商業集積がある地区になっているため、眼下にはあっと驚くほどの都市の風景が広がります。新河辺交差点では岡山と津山と鳥取を結ぶ国道53号に国道179号が合流し、さらに中国自動車道の津山インターも至近にあるというように、河辺地区は現在の自動車交通においても要衝であることがその発展の要因と言えます。

2178.久しぶりの都会へ

2179.旧街道へは階段を下る
階段の下にはかなり広い屋敷があり、その屋敷を半周するようにして旧街道の道筋に戻ります。すぐ近くの国道沿いには郊外型商業施設が並んでいる場所であるにも関わらず、旧街道沿いは意外と落ち着いた雰囲気を残しています。

2180.こちらが旧街道

2181.地蔵堂も残る
国道53号沿いには全国最大手のショッピングモールを中心に、全国チェーン、地元資本問わず郊外型の店舗が乱立しており、旧街道の道筋は河辺交差点でこの国道を横断してまっすぐ西に向かいます。2183の写真は少しでも旧街道らしい雰囲気になるように撮影していますが、旧道沿いにも工場があったりして交通量は多いです。

2182.河辺交差点

2183.少しは旧街道らしく
国道の旧道はクランク状に曲がって加茂川に架かる兼田橋に至ります。兼田橋のすぐ南側には現在の国道の新兼田橋が架けられていますが、その間には移設されたと思われる大きな地蔵と道標が保存されています。

2184.兼田橋へ

2185.兼田橋東詰の地蔵と道標
●兼田橋周辺
兼田橋を渡ればいよいよ旧来からの津山市街に入っていきますが、その兼田橋の西詰には道標が残されています。文字の多い道標には「播州ひめぢ二十一里」というように多くの行先が案内されていますが、その中にある「信州善光寺百五十五里」には驚き呆れます。現在の高速道路でも「長野 620km」などという標識は見たことがありません。また、この辺りには罪人の処刑場もあったそうですが、道標から河原を少し南に行くと、旧街道で一般的に見るものよりも立派な三界萬霊塔が立てられ、丁重に供養されています。

2186.兼田橋西詰の道標

2187.「信州善光寺」って…

2188.三界萬霊塔
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  • ●地名、人名等の読み方
    •  兼田橋=かねたばし
    •  役小角=えんのおづぬ
    •  池ヶ原=いけがはら
    •  大崎=おおざき
    •  美作大崎駅=みまさかおおさきえき
    •  大渡橋=おおわたりばし
    •  広戸川=ひろとがわ
    •  福力=ふくりき
    •  須佐之男命=すさのおのみこと
    •  河辺=かわなべ
          
  • ●関連ページ
          
  • ●参考資料
    •  大崎地区歴史を考える会「大崎の歴史と文化 出雲街道界隈編」
    •  河辺の歴史を考える会「河辺のむかしと今」
    •  美作地域歴史研究連絡協議会「美作の道標と出雲往来一里塚」
    •  岡山県文化財保護協会「岡山県歴史の道調査報告書第四集 出雲往来」
          
  • ●取材日
    •  2014.10.23
    •  2016.1.31
    •  2017.12.3
    •  2020.1.31
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