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30.出雲郷から松江大橋へ
出雲郷橋で意宇川を渡ると出雲郷宿が終わり、同時に合併前からの松江市域に入ります。200mほど先に墓地がありますが、ここは亀井塚と呼ばれ、亀井能登守という侍が神事の際に通行禁止となっていた揖屋から出雲郷の間を馬に乗ったまま通行し、神罰を受けて急死したという伝承の残る地です。そのすぐ先には大門の一里塚があったそうですが、神子谷の一里塚と同様、今は何も残されていません。

4201.意宇川を渡る

4202.亀井塚

4203.大門の一里塚跡はこの辺り
長く続いた旧道は大門交差点で終わり、しばらくは面白味のない国道を行くだけです。しかし、大門交差点から300mほど行った竹矢交差点を左折すれば、出雲国分寺跡を中心とした奈良時代の出雲の中心地がすぐ近くにあるので、そちらに寄道してみます。

4204.大門交差点
 
4205.竹矢交差点
●出雲国分寺跡
竹矢交差点を左折して800mほど、山陰自動車道の竹矢インターの西に出雲国分寺跡があります。そこからまっすぐ南に伸びている農道の下には天平古道と呼ばれる古道が伸びています。この辺りは日本が大和を中心とした統一国家となった頃の史跡が集中しており、その時代の出雲の中心地だったことがわかります。今は田園地帯になっていますが、どことなく奈良県の平城宮跡や藤原宮跡にも似た雰囲気を感じます。また、竹矢交差点の西北には平浜八幡宮と武内神社があり、平浜八幡宮の祭神は応神天皇、武内神社の祭神は日本最古の大臣とされる武内宿禰であり、大和ゆかりの神社です。

4206.出雲国分寺跡

4207.この下に古道が埋もれている
 
4208.平浜八幡宮(武内神社)
>拡大画像 出雲国分寺跡の案内板
>拡大画像 出雲国分寺跡周辺の史跡地図
>拡大画像 平浜八幡宮・武内神社の案内板
竹矢交差点に戻り、国道を1km少々進んでいったところにある歩道橋で山陰本線の線路を越えます。この歩道橋からの眺めが意外と良く、東には遠くに中海大橋と中海が、西にはすぐ側の塩楯島という小島の手間天神社が見えます。

4209.この歩道橋を渡る
 
4210.大橋川に浮かぶ手間天神社
●矢田の渡し
宍道湖と中海を結ぶ大橋川に沿って松江の市街地を目指していきますが、この辺りには橋がない状況がかなり長く続きます。そんな中で見えてくるのが「矢田の渡し」で、何と古代から約1300年の歴史を誇るという現存する川の渡しとしては全国最古とも言われる渡し舟で、わすか1〜2分、運賃40円の船旅を楽しむのも一興です。とは言え、地方における車社会の中で、先述の中海大橋や松江だんだん道路の縁結び大橋が架けられた結果として、利用が激減し、現在では運航の時間帯も朝に限られています。そのため、昼間は大橋川の観光船として運航するなどして伝統ある渡し舟を存続させる努力が続いています。

4211.矢田の渡し
矢田の渡しを過ぎると、大橋川から少し離れて平凡な都市郊外の風景となります。道路は一直線に続いていますが、旧街道はやや北寄りを通っていたそうなので、4212の写真の交差点を右折して200mほど北上、突き当たりを左折して旧街道の道筋に入ります。特筆するほどの史跡はない都市郊外ですが、松江だんだん道路をくぐった先からは歳徳神のお堂があり、旧家も点在するなど、それなりに旧街道らしさが残されています。

4212.ここを右
 
4213.旧街道は少し北にある

4214.歳徳神のお堂
 
4215.旧家が点在
左に大きくカーブするとすぐに右折し、手前天神社の辺りからずっと歩いてきた道路に復帰します。この付近が津田の一里塚のあった場所で、現在は何も残されていませんが、そこにあるアパートの名前が歴史を語っています。

4216.この場所で曲がる
 
4217.歴史を語るのはアパートの名前
津田の一里塚跡から少し東へ戻って南に入れば長源寺があり、ここには尼子勝久や山中鹿ノ介らとともに尼子氏再興のために転戦した立原久綱の墓、そして戦国時代の毛利氏と尼子氏の長きにわたる「雲芸戦乱」の殉難者の供養塔があります。後者はごく新しいものですが、約450年の時を経て、その終末の地であり同じ出雲街道沿線である播磨国の上月とのコラボでこのような供養塔が立てられたことには大きな意義を感じます。

4218.立原久綱の墓
 
4219.雲芸戦乱・尼子勝久供養塔
>拡大画像 立原久綱の墓の案内板
>拡大画像 尼子勝久追恩塔の墓の案内板
松原延命地蔵尊のところで山陰本線の津田踏切を渡ると、線路との間に大きな榎の木が見えます。ここには「田中又六お目見え場」があります。田中家は松江藩の功臣として特別な待遇を受けていた家で、この場所において単独で松江の藩主の見送りや出迎えを行っていたそうです。一般公開はされていないものの、出雲国の上方街道(出雲街道)の絵図として現在も実用性が高く、当サイトでも度々登場している「道程記」を所蔵しているのもこの田中家です。次いで東津田一区交差点では旧道らしく斜め方向に国道を横断します。

4220.松原延命地蔵尊
 
4221.田中又六お目見え場の榎
●津田の松原
津田地区の旧街道には400本以上の松が植えられ、「松江藩道津田松並木」として天然記念物にも指定されていました。現在はすべて切られたり枯れたりしてしまいましたが、津田小学校の校庭北側と東津田交差点西側の歩道橋付近には松の切り株が残されています。さらにもう一度国道を横断すると、国道の北側にはわずかの区間ながら松並木が再現されています。これらは「津田の松原伝承保存会」の皆様のご尽力で整備されたもので、乱開発されがちな都市郊外の国道沿いの地区の歴史をわかりやすく残してくださっています。

4222.再現された松並木

4223.小学校にある最後の松の切り株
 
4224.国道近くにも切り株
わずかに再現された松並木を過ぎたところで左折し、国道の一本北の道を西へ1.5kmほど一直線に進んでいきます。隠岐島への国道である国道485号を横断した先でその道が突き当たると、いったん国道の松原交差点に出ます。

4225.松並木があれば見事ですが…
 
4226.突き当たりを左折して国道へ
ここから竪町交差点までは国道ですが、国道の南側は格子状の整然とした町割り、北側は不規則な道路形状となっていて、その歴史的経緯が気になるところです。このまま西に行くと松江市街をバイパスしたまま通り過ぎてしまうので、松江の中心市街へ向けて竪町交差点を右折し、竪町を通り抜けて天神川を渡ります。

4227.竪町交差点を右折
 
4228.天神川を渡る
>拡大画像 竪町の案内板
天神川を渡ると中央に広場のある変則的な交差点があり、西側には白潟天満宮があります。天神町に入れば、いよいよ松江の古くからの市街に入ってきたという雰囲気も強まってきます。旧街道の道筋はこのままずっと北上して松江大橋を目指していきますが、松江駅前を横切る大通りの県道253号と交差する天神町交差点で右折して松江駅方面に寄道してみます。

4229.白潟天満宮
 
4230.天神町交差点
県道253号の道路の北側は西(宍道湖側)から順に商業地の白潟本町、寺社が集中する寺町、そして歓楽街の伊勢宮となっており、区画ごとに明確な役割の違いがあります。松江駅付近のこの辺りの界隈は、大橋川の北岸にある松江の中枢部と言えるエリアから1.5km以上も離れていることもあって、県庁所在地都市の駅付近にしてはさびしい感じもしますが、それでも天神町交差点から駅前までの間には多くのビジネスホテル、全国的な企業の支店や島根県の企業の本社もあってそれなりに都会的な景観を形成しており、島根県唯一のデパートらしいデパートもあるのも松江駅前です。
また、松江駅はもちろん市内随一の交通拠点であり、各方面のバス路線も集中しているほか、観光案内所も設置されています。現在も残っているかはわかりませんが、ここでは地元の皆様方が「わがまち自慢発掘プロジェクト」として地区ごとに制作したパンフレットをいただくこともでき、松江の都市構造を理解できていなかった私にも大いに役立ちました。また、同様に市民グループが制作し、ここで配布されている「縁結びどこでもバスマップ」も、市内や周辺の観光地への公共交通アクセスが記載されていて役立ちます。このように、松江城や堀川沿いといった有名観光地だけでなく、少し離れた場所でも歴史散策が十分に楽しめること、そして、それをサポートする官民をあげた取り組みができていることはさすが松江だと感じます。

4231.寺町
 
4232.伊勢宮

4233.松江駅
 
4234.地元資本のデパート
>拡大画像 松江鼕の案内板
>拡大画像 寺町の案内板
●白潟
天神町交差点に戻って再び北上します。松江大橋までの間は、古くからの商業地である白潟地区です。現在はやや廃れてしまった印象ですが、近世に入って松江城が築城され、松江が出雲国の中心になる以前から、宍道湖と大橋川の境を形成してきたこの微高地は流通の拠点として繁栄してきました。松江大橋を目指す南北方向の本町通りには東西方向の小路が多数接続し、それぞれに名前が付いています。「持田屋小路」から「出世小路」にかけての微妙な坂道は白潟の地形を実感でき、某人気番組で大物芸能人が喜んだ場所です。

4235.古くからの松江の商業の中心地

4236.微妙に曲げられている
 
4237.タモリさんも喜んだ微高低差
>拡大画像 白潟小路の案内板
●松江大橋
白潟地区を抜けると、大橋川に架かる松江大橋に至ります。現在、大橋川には6つの橋が架けられていますが、ダントツで長い歴史を持つのが「日本100名橋」にも選ばれている松江大橋で、松江藩の初代藩主の堀尾吉晴の時代に初代の橋が架けられてから400年以上の歴史を誇ります。湖をつなぐ水量の多い川への架橋は当時としては大変な難工事で、人柱を捧げたことが伝承としてではなく史実として残されています。現在の橋は17代目で、今も多くのバス路線が通るなど、松江の「橋北」と「橋南」を結ぶその重要性に変わりはありません。

4238.松江大橋

4239.バス路線も多数
 
4240.シジミ漁の舟も見える
>拡大画像 松江大橋・源助柱の案内板
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●地名、人名等の読み方
 ・亀井能登守=かめいのとのかみ
 ・竹矢=ちくや
 ・武内宿禰=たけうちのすくね
 ・塩楯島=しおたてじま
 ・手間天神社=てまてんじんじゃ
 ・長源寺=ちょうげんじ
 ・立原久綱=たちはらひさつな
 ・竪町=たてまち
 ・白潟=しらかた
 ・松江鼕=まつえどう
 ・伊勢宮=いせみや
 ・堀尾吉晴=ほりおよしはる

●参考資料
 樹林舎「定本 島根県の歴史街道」
 角川書店「ブラタモリ4 松江 出雲 軽井沢 博多・福岡」

●取材日
 2015.7.29
 2016.7.15/7.16
 2017.4.21
 2018.2.22
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