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1-2.余部駅→飾西宿→追分峠→東觜崎駅
姫路・たつのエリア この区間の地図
<1-1.姫路駅→下手野→青山→余部駅 1-3.東觜崎駅→觜崎宿→播磨新宮駅>
余部駅まではコースをアレンジしてきましたが、駅すぐ北の取手踏切を渡るなどして駅東側の県道724号に出て出雲街道の道筋に戻ります。飾西宿の入口にあたる飾西交差点までの間、西側の路地を少し入ったところには釈迦堂もあります。飾西交差点ではいったん県道724号と離れ、菅生川沿いに続く県道411号の方に入ります。

1201.飾西釈迦堂

1201.飾西交差点では右
またすぐに斜め左の道に入っていくと、飾西公民館の前には余部村道路元標も保存されており、出雲街道に入ってから初めて旧街道らしくなってきます。

1203.続いて斜め左で旧道へ

1204.余部村道路元標
1205の写真の地点では三角形になった道路の真ん中に1軒だけ新しい家があります。ちょうど菅生川の左岸にある飾西大年神社の参道が接続する地点です。さらに150mほど北上したところの交差点も変則的な形状で、中央に円形の花壇があります。どのような経緯でこうなったのかはわかりませんが、古い道筋を活用して道路を整備した結果であるとは言えるでしょう。

1205.参道と旧街道の接続地点

1206.花壇と道標がある交差点
>拡大画像 白鳥校区史蹟案内図
●飾西の道標
1206の写真の交差点の花壇の脇には道標があります。ここを左折して飾西宿に入っていきますが、さらに100mほど北の交差点にも昭和4年(1929年)の道標があるので立ち寄ってみるのも良いでしょう。いずれも案内される行先は「姫路」「書写山」等で、書写山円教寺もここから直線距離で3km程度です。ここまでで早くも5つの道標をご紹介しましたが、長い出雲街道の道のりの中でも道標がこれほど多く集中しているのはこの一帯くらいで、歴史的に西国街道と出雲街道の分岐点あるいは書写山円教寺の玄関口にあたる交通拠点であったことがはっきりと感じ取れます。

1207.飾西の道標

1208.少し北にもう一つ
●飾西宿
出雲街道で最初の宿場である飾西宿は姫路に近い都市郊外のため開発も進んでおり、近年まで一部が残されていた本陣の門も老朽化のためか取り壊されてしまいました。それでも宿場町としての町割りはよく残っており、古い家屋も点在するなど、よく見れば旧街道の宿場の雰囲気は残されています。

1209.飾西宿の街並み

1210.本陣門は取り壊された

1211.播州屋台が練る祭もある
姫路から飾西までは家並みが連続してきましたが、飾西宿を過ぎた長池東交差点からは家並みが途切れます。もちろん店の数も少なくなりますので、ちょっとした買い物やトイレは飾西までで済ませておきましょう。まもなく左(南)には長池が見え、長池緑道という公園として整備されているため、その遊歩道を歩くこともできます。長池の脇には北向地蔵尊の地蔵堂もあります。

1212.長池東交差点

1213.長池緑道の遊歩道

1214.北向地蔵尊
>拡大画像 北向き地蔵尊の案内板
長池交差点では県道724号からたつの市中心部方面への県道5号が「分岐」します。大きな番号の県道から若い番号の主要地方道が分岐することに少し違和感を感じますが、これは県道724号が旧国道29号であるためで、道路標識等にもその痕跡が見られます。ここから緩やかな上り坂になり、山陽西IC東交差点が頂上となっています。幹線道路に高速道路が接続する大きな交差点ですが、その脇には車石歯痛地蔵があり、また、かつては一里塚もあったという場所でもあり、平成29年(2017年)に整備された案内板が歴史を語っています。交差点を直進して国道29号の姫路北バイパスを潜ると、そのすぐ先で斜め右へ分岐する道に入ります。

1215.上り坂にかかる

1216.山陽姫路西IC東交差点

1217.車石歯痛地蔵
 
1218.斜め右に分岐する道へ
>拡大画像 車石歯痛地蔵の案内板
この30年ほどで整備された幹線道路が縦横無尽に通る中ですが、石倉地区へ下っていく古い道筋には行者が祀られた小さな祠が見られるなど、古道の雰囲気も残されています。周囲の山に目立つのは竹林で、この付近は筍の名産地になっています。

1219.小祠

1220.この辺りは筍の名産地
●石倉地区
石倉地区のほぼ中央には稲荷大明神があり、鳥居前には地名の由来にもなった石の鞍も置かれています。この付近の山々は岩肌が露出した姿になっていることが多く、また、ここで右折して進路を北に変えると、右前方には「とんがり山」とも呼ばれる峯相山が見え、地質が特徴的であることを感じさせます。石の鞍の脇にある「播磨鑑」の文章も、こうした地質の特性が古代からの歴史を形作ってきたことを物語っていると言えるでしょう。

1221.石倉の稲荷大明神

1222.石の鞍

1223.とんがり山が右に見える
>拡大画像 石の鞍の案内板(播磨鑑の記述)
再び県道724号にぶつかると左折し、少しだけ戻る形で蟹谷橋を渡って大津茂川の右岸に移ります。やや不自然な歩き方で、道筋も旧街道時代とは微妙に変わっているのでしょうが、下伊勢の集落に入れば旧街道らしい雰囲気も残されています。

1224.左折で大津茂川を渡る

1225.下伊勢の集落内
●伊勢茶屋
飾西と觜崎のほぼ中間点にあたる下伊勢にはかつて茶屋があり、今も国道29号にあるバス停に伊勢茶屋という名前が残っています。案内板によれば、1226の写真の地点が鳥取の殿様が参勤交代の途中で休憩されたという立場があった場所です。なお、案内板のタイトルにもあるように、播磨国ではほとんどの区間で因幡街道と出雲街道が重複しているため、出雲街道も「因幡街道」と呼ばれていることが多いです。

1226.伊勢茶屋の立場跡
>拡大画像 伊勢茶屋と因幡街道の案内板
伊勢茶屋の立場跡を過ぎると、まもなく変則的な五差路があり、ここでは一番左の上り坂を選択し、追分峠への峠道にかかっていきます。上り坂の途中で姫路西霊苑の中に入ります。大規模な墓地なのでいくつかの分岐がありますが、墓地に入ったところの1228の写真の地点では道なりに右カーブ、その次の国道29号から上ってくる道路との交差点では直進で進んでいきます。

1227.変則的五差路は直進(左)

1228.姫路西霊園を通過
その姫路西霊苑が終わるところに柵があり、道はほぼ直角に右カーブしていますが、この柵の扉を開き、山道へ直進するのが旧街道の道筋です。柵の扉が閉められているところに入っていくのには少し抵抗感もありますが、これは獣害防止のための柵であり、ここは「地図で道路扱いされている道」「鍵が掛けられておらず普通に開けられる」「立入禁止とは書かれていない」「電気柵ではない」といった条件なので、ただ街道歩きのために通行する程度なら構わないと判断できます。もちろん、扉を開けたらきっちりと閉めるのが当然のマナーです。しばらくは道の状態も悪く、少しだけの辛抱とは言え、雑草が生い茂る夏には通過は厳しい感じです。

1229.柵に阻まれますが…

1230.最初だけ道が悪い
●追分峠
状態の悪い山道を上るのは100mほどで、すぐに姫路市とたつの市の境となる追分峠に至ります。これからいくつも登場する峠に比べれば、距離も標高も勾配も大したことはありませんが、それでも出雲街道で最初の峠であり、頂上付近では古い石垣も残っていて古道の山道を歩いていると実感できます。峠を越えるとまたたつの市側の柵があり、そこからもう少し下れば道の状態も良くなり、視界も開けて気持ちの良い道に変わります。

1231.峠道の石垣

1232.たつの市側はだいぶマシ

1233.眺望が開ける箇所もある
道路に舗装が戻り、S字カーブを下っていけば、稲荷神社の立派な常夜燈に迎えられて追分の集落に入ります。伊勢茶屋と同様、ここも旧街道らしい雰囲気を残した集落です。

1234.稲荷神社の常夜燈

1235.追分の集落内
●追分の道標
追分の集落の出口となるY字型の三差路には明治19年(1887年)の道標があります。姫路の方向から見れば「左 作州 雲州 右 因州 伯州」とあり、ここは因幡街道(山崎・若桜経由のルート)と出雲街道の分岐点でした。この場所ではどちらの街道も昔の道筋のままなので、まさに「追分の道標」という姿を残しています。一方、近くにある追分交差点は北への国道29号と西への県道724号の分岐点ですが、どちらの道路も旧街道のルートと役割を引き継いでいるため、現在でも追分は旧街道時代と同様の重要交差点と言えます。

1236.左右に旧街道、分岐に道標
●野部の縁切り地蔵
追分の道標ではもちろん左の出雲街道に入り、300mほどでいったん県道724号に合流します。その交差点からも見えている次の交差点を斜め左に入ったところにあるのが縁切り地蔵尊で、悪縁を切ることに霊験があるそうです。その由来はいかにも旧街道らしいエピソードで、出雲街道の一つの意義はもちろん縁結びの神様である出雲大社への参詣の道ですが、その道筋には悪縁を断つパワースポットもあるということになります。

1237.縁切り地蔵尊
>拡大画像 野部の縁切り地蔵の案内板
縁切り地蔵付近の旧道はすぐに終わりますが、県道724号を斜め方向に横断して、県道の北の道で林田川まで西進します。結局のところ林田川を渡るのは県道の鳥井橋になるのですが、旧街道時代にはこの橋の少し北で川を歩いて渡っていたそうで、現在でも東岸には少し広いスペースがあり、この場所から荒神社や道標のある西岸に渡っていたことが想像できます。

1238.南の旧道から北の旧道へ

1239.この付近で林田川を渡っていた

1240.県道の鳥井橋
 
林田川を渡ってすぐ右に曲がると荒神社があり、その側に明治34年(1901年)の道標が残されています。役割としては近い年代に建てられた追分の道標と同じで、東から見て「左 因州 雲州 觜崎」「右 林田 安志 山崎」と刻まれていますが、因幡国へ行くのが山崎・若桜経由の国道29号ルートではなく、佐用・智頭経由の国道179号・373号・53号ルートになっているのが相違点です。なお、この地点から1.5kmほど北、道標にも記載されている林田地区内にも史跡が多くありますが、道標に従えば、ここはUターンして県道724号を横断し、その少し南を西へ進んでいくことになります。

1241.荒神社

1242.林田川の道標

1243.少し南下して右カーブ
觜崎を目指して進んでいく道は微妙なカーブを繰り返しつつ多くの交差点を通過していきますが、ただ道なりに行けば觜崎宿の近くまで行けるのが旧街道らしいところで、迷う心配はありません。沿道には古い家もあれば新しい家もあり、時に田園風景となることもあるという感じで、何とも中途半端な印象ですが、大都市でもなければ過疎地でもない場所で、大がかりな道路の整備も開発の規制もされていなければ、旧街道はこのような姿になるのでしょう。

1244.新旧混在の家並みが続いたり

1245.田園風景になったり
南北方向の立派な道路と交差すると少しは旧街道らしい雰囲気になり、1247の写真の交差点は細い道同士が接続する変則的な四差路になっています。その付近には道標も残されているそうですが、私には発見できませんでした。なお、林田川を渡ってから県道724号の南の道を歩いてきていますが、この付近では県道の北の山沿いに奈良時代の奥村廃寺の跡があり、古代の出雲街道(因幡街道)と推測される道筋も確認されています。

1246.少し旧街道らしくなる

1247.この辺りに道標がある?
>拡大画像 奥村廃寺跡の案内板
●素麺神社とそうめんの里
1247の写真の交差点から300mほどで素麺神社という神社があります。その名にも驚かされますが、鳥居も社殿も新しくきれいな状態なのも印象的です。この付近は「揖保乃糸」ブランドで知られる全国屈指の素麺の産地であり、この神社が現在も周辺に多数存在する関係業者からの篤い崇敬を集めていることが感じ取れます。また、県道724号沿いには「そうめんの里」があり、素麺の製法等を学ぶこともできれば、素麺流しを楽しむこともでき、素麺専門のレストランもあるという観光施設として人気を集めています。

1248.素麺神社

1249.そうめんの里
素麺神社の北にある1250の写真の地点では前方の丘陵が削られているのがわかります。旧街道の時代にはこのような大規模な掘削による道路の建設などできるわけもないので、ここでは斜め右の道で丘の北を回り込むのが本来の道筋です。しかし、その道には草木に埋もれてしまっている部分があり、荒れているのはほんの10mほどなので強行突破も可能ですが、現実には直進して県道724号に出るのが無難です。

1250.斜め右が旧街道

1251.旧街道は荒れています
その丘陵をあっけなく越えると東觜崎駅方面に行く県道436号が斜め左に分岐し、その道で觜崎宿へと入っていきます。佐用街道踏切の手前で左折すると姫新線の東觜崎駅で、駅の西側には今も現役なのかはわかりませんが、製麺工場とその倉庫らしい大きな建物が並んでいます。

1252.斜め左の県道で東觜崎駅方面へ

1253.道沿いに残るお堂

1254.東觜崎駅

1255.東觜崎駅の構内
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