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2-1.西栗栖駅→相坂峠→三日月宿→三日月駅
佐用エリア この区間の地図
<1-4.播磨新宮駅→千本宿→西栗栖駅 2-2.三日月駅→乃井野→新宿→播磨徳久駅>
西栗栖駅を過ぎると道沿いに家並みが続くようになります。旧街道時代の宿場ではありませんが、相坂橋で栗栖川を渡った先には西栗栖小学校があり、相坂公民館前には西栗栖村道路元標も残されているなど、小規模ながらも地区の中心という雰囲気があります。そして相坂峠に向かっての坂道が始まるところにある西法寺には、後述する三日月藩の乃井野陣屋の門の一部が移築されたという山門がありましたが、平成30年(2018)に再移築され、乃井野の地に戻りました。歴史ある建造物が約140年という時を経て元の場所に戻るというのは稀有な例だと言えますし、無住の寺となったように見える西法寺に残されていても近い将来に朽ちていくことが予想されるため、文化財の保護という意味でも有意義な再移築だったと言えるでしょう。

1501.相坂橋を渡る

1502.相坂公民館付近

1503.西栗栖村道路元標

1504.山門がなくなった西法寺
集落の北端近くで変則的な四差路があり、旧街道の道筋は斜め左と思われますが、道がすぐ途切れてしまいます。一方、直進も姫新線の踏切が廃止されて道が続かないので、斜め右を選択して姫新線の線路をくぐります。県道44号のガードはくぐらず、その間を左折して丘陵の中腹を行く県道に出ていきます。

1505.ここでは斜め右へ

1506.高さ制限1.5m!
県道44号を歩くのはごくわずかで、すぐ国道に戻りますが、その途中には荒神社があります。神社の脇に宝永7年(1710)に建立された薬師がありますが、これは播磨自動車道の建設工事に伴い、相坂峠の頂上付近から移設されてきたものです。国道に戻れば、国道の峠道らしい雰囲気になって、相坂峠へと上っていきます。

1507.相坂荒神社

1508.移設されてきた薬師堂

1509.急な上り坂に
>拡大画像 相坂峠の薬師の案内板
●相坂峠
相坂峠は揖保川水系と千種川水系を分ける峠で、現在の国道が旧街道の道筋をほぼ上書きしています。令和4年(2022)3月に開通した播磨自動車道の建設に伴い、先述した薬師堂が移設されるなど、ごく最近になって姿を変えた部分はありますが、頂上を少し過ぎたところには地蔵堂もあり、平成の時代まで国道沿いに残されていた石仏3体はいずれも保存されていて、少しは旧街道の峠らしさを保っています。下る途中にある駐車スペースには、トイレこそないものの小公園と相坂峠を紹介する案内板があり、隠岐に流される後鳥羽上皇が歌を詠んだ故事が紹介されています。なお、名もある峠らしい峠ですが、案内板でも触れられているように、この峠は平成の大合併の前ですら市町村の境ではなく、たつの市(旧新宮町)はあと少し続きます。

1510.旧街道の峠を高速道路が横切る

1511.地蔵堂も残る

1512.相坂峠の小公園
>拡大画像 相坂峠の案内板
写真1513の交差点を左折して県道154号で下莇原地区に入ります。栗栖川に代わって登場する角亀川は千種川に向けて下っていて、峠を越えたことがはっきりわかります。旧街道の道筋は角亀川右岸に続いていたようですが、写真1514の地点を左折して姫新線をくぐり、またすぐに右折で角亀川を渡って左岸にある集落に立ち寄ってみます。

1513.斜め左で下莇原へ

1514.もう一度左折してみます
●下莇原
下莇原地区の左岸の集落には狭い道沿いに和同開珎が発掘されたという畑、次いで相坂峠の薬師や地蔵よりも古い享保8年(1723)の地蔵が祀られた地蔵堂が見られます。また、再び姫新線と角亀川を渡って右岸に戻ったところには自然石の大きな常夜燈が目立っており、いずれにしても旧街道沿いに多く見られる史跡よりもさらに古い歴史を感じさせるものです。この先、左岸に道は続いていませんが、後述する後鳥羽上皇ゆかりの「弓の木」も左岸にあることから考えて、記録に残る右岸の出雲街道よりも古い道筋が左岸にあったのではないかと想像させてくれます。

1515.和同開珎が発掘された畑

1516.享保時代の地蔵も

1517.自然石の常夜燈
下莇原の集落を通り過ぎると、国道には戻らず畦道をしばらく歩きます。旧街道の道筋ではないかもしれませんが、国道に歩道のない区間をパスできるのでありがたい存在です。この畦道から国道に戻ったところからは国道に歩道が復活し、まもなく佐用町(旧三日月町)に入ります。

1518.畔道を行く

1519.佐用町に入る
佐用町に入ると角亀川の対岸に弓の木を見ながら、400mほど国道を北上します。三日月宿への道が分岐する直前には地蔵堂があり、一般的に道沿いで見かける地蔵より大きな地蔵が祀られています。写真1522の地点では斜め右への分岐があり、そこから三日月宿へ入っていきますが、これまでご紹介してきた弓の木に寄るにはここを左折し、弓の木橋と能谷踏切を渡って少し後戻りするような形でS字を描くように南下していきます。

1520.対岸に弓の木

1521.地蔵堂

1522.左に弓の木、右に三日月宿
●弓の木
そうして到着した弓の木はムクの古木で、隠岐に配流される後鳥羽上皇がこの木に弓を掛けて休息されたという伝承があります。その脇には地蔵と記念碑があり、昔からこの伝承の地が大切にされてきたことが感じられますが、昭和14年(1939)に建てられた記念碑には「後醍醐天皇」と彫られています。

1523.弓の木

1524.六地蔵

1525.地蔵と記念碑
>拡大画像 弓の木の案内板
●三日月宿
写真1522の地点に戻り、斜め右に入れば三日月宿です。まもなく古民家に挟まれた交差点があり、その先に本陣織田家があります。織田信長の弟である織田信包の子孫がこの地に定住して本陣を務めたため、織田木瓜の家紋が見られます。

1526.本陣付近の街並み

1527.古民家も多い

1528.本陣織田家の織田木瓜
本陣から200mほど北上したところにある明光寺は花の美しい寺で、三日月出身にして張作霖爆殺事件の首謀者とされる河本大作の碑もあります。戦前の満洲で暗躍した関東軍の軍人は悪く言われがちですが、地元ではこのように顕彰されています。

1529.しだれ桜が咲く明光寺

1530.河本大作の碑
写真1531の地点で道は突き当たり、宿場町の出入口の曲がりを構成しています。旧街道は左ですが、右の山沿いの道を進んでいけば、400mほどで福仙寺とたくさん並んだ赤い鳥居がよく目立つ福森稲荷神社があります。

1531.右を選ぶのがおすすめ

1532.福仙寺と福森稲荷神社
さらに200mほどで県道433号と本郷川にぶつかります。すぐ左に見える桜橋交差点から国道に戻り、写真1533の交差点で斜め右の旧道で現在の三日月の中心と言える市街に入っていきます。一方、国道を進んでいくと三日月駅があります。この付近で国道からも鉄道からもよく見える三方里山の三日月の植え込みは、三日月の町のシンボルです。

1533.斜め右で市街へ

1534.三日月駅

1535.三方里山の三日月
>拡大画像 三日月地域の案内板
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  • ●地名、人名等の読み方
    •  相坂=あいさか
    •  乃井野=のいの
    •  千種川=ちくさがわ
    •  下莇原=しもあざはら
    •  佐用町=さようちょう
    •  角亀川=つのかめがわ
    •  後鳥羽上皇=ごとばじょうこう
    •  後醍醐天皇=ごだいごてんのう
    •  織田信長=おだのぶなが
    •  織田信包=おだのぶかね
    •  張作霖=ちょうさくりん
    •  河本大作=こうもとだいさく
    •  三方里山=さんぼりさん
          
  • ●関連ページ
          
  • ●参考資料
    •  たつの市立埋蔵文化財センター図録10「因幡街道 〜山陰と山陽を結ぶ道〜」
    •  佐用ハイキングコース選定の会「佐用ハイキング34コース」
          
  • ●取材日
    •  2014.8.26
    •  2017.2.28
    •  2018.1.23/5.22
    •  2019.2.10/6.24
    •  2023.3.28
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