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2-4.佐用駅→上月駅
佐用エリア この区間の地図
<2-3.播磨徳久駅→佐用宿→佐用駅 2-5-1.上月駅→萬ノ乢>
佐用駅の裏、駅南公園からも旧街道の道筋は東の山沿いにあり、現在の国道や市街から外れてはいますが、秀谷、山平、大坪と集落は続きます。基本的に一本道ですが、1801の写真の交差点で大坪の集落に入るところでは、道なりに進むより斜め右の集落内の道に入った方が古い家屋も見られて雰囲気の良い道を歩けます。

1801.斜め右で大坪の集落へ

1802.大坪の集落内
大坪集落を過ぎると大坪踏切で姫新線を渡り、佐用川沿いの道に出ると左折、またすぐに右折して大坪橋で佐用川を渡って右岸に移ります。佐用川は先述した大水害を受けて全面的な河川改修が行われており、この辺りの橋はすべてが新しく架け直されています。佐用川を渡ればすぐに国道が横切っており、ここを左折して国道を歩くことになりますが、直進していくと正面やや右の低い丘に佐用城跡(福原城跡)があります。観光名所になるほどの城郭遺構が残っているわけではありませんが、少しでも中世城郭をかじっていれば、郭や堀切の跡らしきものを確認できるでしょう。

1803.大坪踏切で姫新線を渡る

1804.大坪橋で佐用川を渡る

1805.旧街道は左折、佐用城跡は直進

1806.佐用城跡
>拡大画像 佐用城跡(福原城跡)の案内板
佐用川を渡ってから旧上月町に入るまでの間、真盛地区において記録に残る旧街道は国道がほとんど上書きしています。左右を見ると旧道や旧街道の痕跡はわずかに残っていますが、あまり面白い道ではありません。そこで、ここでは大坪橋から600mほど南下した1807の写真の地点を右折、新しい住宅が建っている1808の写真の地点を左折し、山沿いの道を歩くことにします。

1807.ここを右折すると…

1808.住宅の間から古道に入れる
●真盛地区の古道
真盛地区の集落の裏の微妙に高い位置には標高100mの等高線に沿うようにして、緩やかに曲がった未舗装の道が1km近く続きます。途中には金刀比羅神社もあって地元の方々の通行もあるようで、夏でもきれいな状態の非常に気持ちの良い道です。先述したように旧街道として記録されている道筋は国道沿いですが、この道沿いにも地蔵堂や薬師堂、そして安永7年(1778年)の供養塔が見られ、より古い出雲街道の道筋なのか、こちらも古くから利用されてきた道筋であると言うことはできます。

1809.山沿いの古道

1810.金刀比羅神社

1811.地蔵堂と供養塔
道が舗装道路になると真盛の集落に入っていきます。道は細く入り組んでいてどう進むべきか迷いますが、1812の写真正面の蔵の裏にある細道を歩いたりするのも楽しいでしょう。国道沿いにはこの付近でよく目立っている建設基礎工事の会社があり、そこに向けて集落を抜けていく形となります。

1812.真盛の集落内

1813.こんな細道も楽しい

1814.ここで左折
 
1815.基礎工事の会社の前で国道に戻る
500mほど国道を南下して旧上月町に入ると、国道が大きく右カーブする手前に柵の切れ目があり、そこからは旧街道の名残と思える道を通ることができます。再び国道に合流する地点には「壹本松」という旅館があります。立地や名称からして旧街道時代の旅籠の名残の旅館かもしれないと考えていましたが、実際にこの旅館に宿泊された方にお尋ねしてみたところ、そうではなかったとのことでした。しかし、町の中心から大きく外れ、現在の交通結節点に近いわけでもないこの場所において、旅館が立派に営業を続けているのは貴重な例だとは言えます。

1816.柵の切れ目から

1817.旅館壹本松
旅館のすぐ先には肘松の一里塚跡がありますが、国道からは太陽光パネルに遮られてほとんど見えなくなっています。出雲街道を歩かれている方々も見逃したり、見つけるのに苦労したりされる方が多く、かく言う私も恥ずかしながら2度見落としているという要注意の史跡です。1818の写真の地点で国道の南側の路肩が不自然な形になっているのは旧街道の痕跡と思われますが、草が伸びてここからは入りづらいので、1819の写真の太陽光パネルの敷地に入らせていただき、その裏に回るのが良いでしょう。

1818.古道の痕跡らしきものが南に

1819.太陽光パネルの裏!
●肘松の一里塚跡
そうして辿り着いた肘松の一里塚跡は史跡として保存された一里塚の史跡で、昭和57年(1982年)に植え替えられた三代目の松と石碑があります。ごくわずかの区間ですが、道が手入れされているのも好印象です。旧街道には必ず設置されている一里塚と言っても、このような形で保存されているところは案外少なく、姫路を出てから初めての一里塚らしい一里塚の史跡です。

1820.肘松の一里塚跡
続く早瀬地区では旧街道の道筋は明確ではありませんが、1821の写真の地点で鋭角に右折し、国道を離れて集落内に入ります。道なりに進んで早瀬白山神社の鳥居のところで右カーブすれば文政2年(1819年)の地蔵付き大乗妙典供養塔がある早瀬公民館に至ります。公民館の裏の丘にある早瀬白山神社に登っていけば、参道の途中で眺めが開け、川に近い平地が田畑となり、山沿いに集落があるという出雲街道沿線の伝統的な土地利用の状況が手に取るようにわかります。公民館から西では旧街道と判断して間違いなさそうな道が集落の少し高い位置を通り抜けています。

1821.鋭角に右折

1822.早瀬公民館前の供養塔など

1823.地域の土地利用がよくわかる

1824.少し高い位置を行く
佐用川沿いの国道に戻って200mほど進むと、前方には上町交差点から重複してきた国道373号と別れる上月三差路交差点の案内標識も見えてきて、上月の市街が近づいてきます。しかし、旧街道の道筋は1825の写真の交差点で斜め右へ分岐する坂道に入り、数度のカーブで小さな丘を越え、1826の写真の交差点を右折して市街に入るというコースになっています。現在の道路網から見れば不自然な遠回りに感じられますが、この丘は現在の国道を通すために削られており、険しい地形の中、現在の国道のルートに道はなかったと想像できます。そして交通の要所の要害だけに、戦国時代にはこの丘に丸山城という城が築かれていたそうです。

1825.斜め右の坂道へ

1826.ここは右折
上月は宿場町ではなく、店舗や公共施設は佐用川沿いの駅周辺に集まっているため、旧街道と思われる道沿いには市街というほどの市街は形成されていません。あっさりと集落を通り過ぎると、上上月集会所の北の山に上月八幡神社があり、そこから上月支所や上月駅のある国道へ下っていきます。

1827.上月の旧街道沿い

1828.上月八幡神社
国道まで下ると佐用町の上月支所などがあり、小さいながらも町の中心という雰囲気です。ほたる橋という橋を渡ったところにある上月駅は無人駅ですが、「佐用風土」としてブランド化された佐用町内の特産物の直売所が併設された立派な駅舎が建っており、駐車場も整備されています。また、駅前には全国的にも珍しくなってきた古くからの駅前旅館が健在です。駅前の案内図にもありますが、出雲の戦国大名である尼子氏再興のために転戦した尼子勝久と山中鹿ノ介主従が最後に籠城した上月城跡もこの近くにあります。

1829.上月駅

1830.もち大豆のみそ煮込みうどん

1831.駅前旅館も現役
>拡大画像 上月の名所案内板
<2-3.播磨徳久駅→佐用宿→佐用駅 2-5-1.上月駅→萬ノ乢>
  • ●地名、人名等の読み方
    •  上月=こうづき
    •  真盛=さねもり
    •  尼子勝久=あまこかつひさ
    •  山中鹿之介=やまなかしかのすけ
          
  • ●関連ページ
          
  • ●参考資料
    •  佐用ハイキングコース選定の会「佐用ハイキング34コース」
          
  • ●取材日
    •  2014.9.2
    •  2015.10.9
    •  2016.5.31
    •  2018.6.13
    •  2019.4.28
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