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3-2.美作江見駅→楢原→美作インターバス停
美作・勝央エリア この区間の地図
<3-1.美作土居駅→江見→美作江見駅 3-3.美作インターBS→勝間田駅>
旧街道は美作江見駅の一つ東側にある2201の写真の交差点を北に入ります。すぐに左カーブするところには六地蔵があり、続いて一貫清水という清水場の史跡もありますが、一貫清水は民家の敷地内にあってほとんど見えず、通り過ぎてしまっても仕方のないところです。

2201.旧街道はここで右折

2202.すぐに六地蔵がある

2053.一貫清水は右の民家の敷地内
その先では案内標識のない交差点をいくつも通過していくことになり、方向感覚も狂いがちなので、道を間違えないように注意が必要です。2204の写真の交差点は中央の道に入り、無縁仏などを見ながら北上していきます。その先で短い坂道を上り下りすると、左へ90度以上カーブするような形で道なりに進んでいき、2206の写真の地点を右に入ります。厳密な旧街道の道筋とは違うようですが、この付近では中国自動車道の建設によって古道の道筋も失われがちで、現在でも歩行可能な道を選んでいくとこのような形になります。
なお、2204の写真の交差点には「美作市歴史文化財研究会」による「美作市出雲街道歩行マップ」が設置されています。美作市においては「美作市出雲街道マップ」を作成したり、史跡に石碑を整備したりする活動を行ってきた「出雲街道再発見の会」が解散してしまいましたが、令和3年(2021年)からは「美作市歴史文化財研究会」による新たな活動が始まっており、この「美作市出雲街道歩行マップ」も順次追加されています。

2204.ここは真ん中へ

2205.道なりに左へカーブ

2206.ここで右

2207.中国道を目指して北へ
>拡大画像 美作市出雲街道マップ(江見〜川北地区版)
旧街道の道筋は概ね中国自動車道の北にあったそうですが、道が荒れているので、少し不気味な「佐用51」のトンネルは無視、「佐用52」のトンネルをくぐって中国自動車道の北の側道に出ます。兵庫・岡山県境付近の中国自動車道は運転していると坂やカーブが多いのが気になりますが、こうしてその脇を歩いていれば坂もカーブも緩く感じるのは不思議なところです。

2208.中国道の側道

2209.右折して「佐用52」をくぐる
●峠の地蔵堂周辺
中国自動車道の北に出て小さな丘を一つ越えたところには峠の地蔵堂があり、奈良時代に行基が西国行脚の際に建立したという伝承のある地蔵が祀られています。脇には宝篋印塔があり、付近には小祠や石造物も見られます。さらに西に進んでいくと、常夜燈や六十六部供養塔があり、今後(特に真庭市や真庭郡内で)よく見られる地神も初登場します。中国自動車道の建設時に移設されたのか、史跡の集まり方がやや不自然にも見えますが、大規模な建設事業に際しても史跡をしっかりと残してくださったことはよくわかりますし、何よりもすぐ脇に高速道路が貫く中でも古道歩きの気分が十分に楽しめる道となっているのがありがたいところです。

2210.峠の地蔵堂と宝篋印塔

2211.常夜燈

2212.供養塔や地神
>拡大画像 美作市出雲街道マップ(川北〜平福地区版)
峠の地蔵堂から700mほど西進すると、中国自動車道からわずかに離れて古道の道筋がそのまま残されていると思われるカーブに差し掛かり、その先には少し高い位置に地蔵堂があります。

2213.古道そのものと思われるカーブ

2214.地蔵堂
楢原パーキングエリアの北には、美作国の一宮である中山神社の主祭神「鏡作命」の降臨地がありますが、2215の写真に見える看板は支柱も倒れ、私が付近の木に立てかけておいたものです。残念ながらこういった状況は出雲街道ではよくあることですが、地元の方も、街道歩きに来た皆様方も、見かけたら可能な範囲で直していただければと思います。ともあれ、ネット上でも公開されている「美作市出雲街道マップ」によると、この付近では北の山沿いにも史跡が多くあるそうで、ご紹介している近世出雲街道の道筋よりも古い道筋が北にあったことを想像させます。

2215.鏡作命降臨地は右ですが…

2216.鏡作命降臨地
久しぶりの集落である神宿集落は鏡作命が降臨した「神宿る地」が地名の由来になっており、立派な民家の敷地内に中山太神宮の社があったり、交差点の脇に道祖神などの石造物が数多く置かれたりしている様子が見られます。県道354号を横断すると、楢原の街に入っていきます。

2217.民家の敷地内に中山太神宮

2218.神宿郷の石碑群

2219.県道を横断して楢原の街へ
●楢原
楢原の街の入口では人舛跡という史跡に迎えられます。これは楢原に出入りする参勤交代の行列の人数を確認するために設けられていたものです。楢原は距離が比較的長い土居宿と勝間田宿のほぼ中間に位置するため、休息地として宿場町に準ずる街並みが形成されてきました。現在でも国道から離れているためか、新しい店舗等もなく、ある意味これまで見てきた宿場町よりも雰囲気を残しているような感じです。中央部には立場跡、西側の郵便局付近には出口の人舛跡と一里塚の跡があります。

2220.人舛跡(東側)

2221.立場跡はこの付近

2222.人舛跡(西側)と一里塚跡
街並みの出口の交差点では直進するのが旧街道の道筋のように見えますが、圃場整備によってすぐ先で旧街道は失われ、かえって本来の道筋から離れていってしまうことになるので、斜め左を選択します。中国自動車道を乗り越えて南の集落に行くために造成されたと考えられる坂道を上り、またすぐに下って田園風景の中を進んでいきます。これらの要因により、史跡も消失してしまったものが多いのか、2225の写真の巨木の下に古い墓石があるのが見られる程度です。この付近の地名は「火の神」といい、県道388号を横断すれば、小規模ながらも枝の伐採された巨木が印象的な火之神社があります。

2223.ここは斜め左へ

2224.造成された坂道

2225.印象的な巨木と古い墓石

2226.火之神社
●笠懸の森
梶並川を渡る直前には笠懸の森という史跡があり、周囲の古木に護られるようにして記念碑などが立ち並んでいます。ここは後醍醐天皇が元弘の変で隠岐に流される際、梶並川が増水して渡ることができなかったため、一時休息され、警護の武士たちが笠懸の武技を見せて天皇を慰めたという伝承の地です。梶並川は美作市西部の谷筋を形成する比較的大きな川であり、江戸時代にも橋は架けられていませんでしたが、現在では「笠懸橋」で簡単に渡ることができ、難所らしさは感じられません。

2227.笠懸の森

2228.後醍醐天皇御駐輦記念の碑

2229.笠懸橋で梶並川を渡る
>拡大画像 笠懸の森の案内板
梶並川を渡ると、立て続けに曽井川を渡ります。その間は洪水の危険性も高そうに思えるような場所ですが、渡里という交通由来の地名を持つ古くからの集落で、北にはかなり立派な屋敷も見えます。曽井川を渡れば200mほどで県道51号と交差する交差点に出ます。

2230.川に挟まれた渡里地区

2231.北山交差点
旧街道は直進を続けますが、左折すると約400mで美作インターがあります。ここからは津山や大阪への高速バスが頻発していて、作東や中国勝間田といったバス停への短区間利用も可能であることを知っておくと便利です。また、美作インターの周辺には商業施設も集まり、現在では美作市内でも最も栄えている場所の一つになっています。

2233.美作インターの高速バス停
<3-1.美作土居駅→江見→美作江見駅 3-3.美作インターBS→勝間田駅>
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