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3-4.勝間田駅→勝間田宿→美作大崎駅 |
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●美作・勝央エリア [この区間の地図] |
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<3-3.美作インターBS→勝間田駅 |
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4-1.美作大崎駅→河辺→津山駅> |
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●勝間田宿1
旧街道に戻って勝間田宿に入ったところに岡出屋という割烹旅館があり、そこには鹿の角に「おかでや」と書かれた木製プレートが吊るされています。勝間田宿では宿場町時代の屋号等が30カ所に表示されており、街の景観にアクセントを添えているだけでなく、かつての屋号のままで商売を続けている店を見つけられるなど、街歩きの面での楽しみも付加されています。道路も石畳風の舗装となって沿道の古い建物とマッチしており、水路には鯉が泳いでいるなど、整備もよくなされています。古い建物がよく残っている、景観が整えられている、町としての機能を十分に残しているという3つの点において、姫路からここまでの宿場町の中では旧街道の宿場町らしい町であるとも言えます。また、勝央町は「金太郎」として知られる坂田金時の終焉の地で、街並みの中に金太郎の像があります。 |
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2401.舗装は石畳風、水路には鯉 |
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2402.昔の屋号のままの割烹旅館 |
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2403.金太郎の像 |
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>拡大画像 勝間田宿の案内板 |
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●勝間田宿2
勝間田宿のハイライトが木村脇本陣跡に建てられた旧勝田郡役所で、古い宿場町の中で異彩を放つ洋館が石畳風の道路に似合っています。この建物は明治45年(1912)に建てられ、昭和57年(1982)に勝央町役場としての役割を終えるまで、実に70年にわたって地域行政の中心であり、町のシンボルでした。一方、その正面には古民家を改装した「勝央こころざしシェアスペース」がオープンしていますが、その場所は伊能忠敬の測量隊が宿泊し、天体観測を行った場所で、平成30年(2018)にはそのことを記載した案内板も設置されました。さらにその西には江戸時代以来の茶室が残されている下山本陣跡があります。茶室は旧街道の道筋を歩いていたら見逃してしまっても仕方のないような奥まった場所にありますが、それがかえって往時の本陣の広さを感じさせてくれます。 |
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2404.旧勝田郡役所 |
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2405.勝央こころざしシェアスペース |
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2406.下山本陣跡に残る茶室 |
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>拡大画像 伊能忠敬測量隊宿泊地の案内板
>拡大画像 下山本陣の案内板 |
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歴史的に見た勝間田宿の範囲は水路に架かる恵比須橋で終わりますが、石畳風の舗装と鹿の角飾りによる屋号等の表示はもうしばらく続きます。緩やかな坂道で滝川の堤防に上り、馬つなぎ場の跡を見て勝間田大橋を渡ると、その先には勝間田宿の人々がかつてここまで旅人を見送りに出ていたというお礼場の跡があります。続いてすぐ右(北)にあるのは勝間田神社で、勝負事や合格祈願に縁起の良い神社として人気も上昇中です。 |
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2407.勝間田宿は恵比須橋まで |
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2408.勝間田大橋で滝川を渡る |
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2409.お礼場の跡 |
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2410.勝間田神社 |
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勝間田神社から300mほどで旧道が終わると、久しぶりの国道に復帰します。美作、勝央の2つの町を過ぎ、これから美作国最大の都市である津山市に入っていくため、前に国道から別れた江見あたりに比べれば交通量は明らかに増えています。ここからしばらくの間は国道が旧街道の道筋を引き継いでいるため、史跡も失われがちですが、それでも明治7年(1875)の大日如来などが見られます。 |
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2411.久しぶりの国道へ |
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2412.国道沿いの大日如来 |
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●泣清水
国道の緩やかな坂道を上り詰めると、押田バス停のところには泣清水というかつての清水場があります。ここは同じ吉井川水系でも肘川から広戸川を経て吉井川に向かう流れと滝川から吉野川を経て吉井川に向かう流れの分水嶺となっている地点です。そして、ここにある六面石幢は周辺の村々が流行病で困窮したときに建立されたというもので、新型コロナウイルス禍を経験した令和の時代にも通じる祈りの場所でもあります。 |
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2413.六面石幢 |
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2414.水は今も湧いている |
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2415.勝間田郷霊場の石仏も |
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>拡大画像 泣清水の碑 |
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泣清水の西側には五厘田池という池があり、その北側に一里塚がありました。その跡は全く残されていませんでしたが、令和4年(2022)になって標柱が設置されました。勝央町西部の旧街道はほぼ国道に上書きされていますが、写真2417の駐車スペースのように、国道の車線の外側に広いスペースがあることが多く、かつての旧街道が屈曲していた痕跡かと想像させてくれます。 |
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2416.五厘田一里塚跡 |
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2417.広いスペースは旧街道の痕跡? |
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写真2418の交差点では斜め右に黒坂地区の旧道が分岐し、大峯役小角供養塔に迎えられます。姫新線の第一黒坂踏切を渡ると、黒坂公民館の脇には街道の絵図にも記載されている八坂神社の小社があり、次いで県道415号を横断する付近には立場があったそうです。 |
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2418.斜め右の旧道へ |
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2419.大峯役小角供養塔 |
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2420.八坂神社 |
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2421.ここには立場があった |
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次に国道に戻る場所には高取小学校の跡があり、国道に合流するとすぐ右(北)に高取八幡神社があります。この周辺は昭和の大合併まで高取村という自治体でしたが、なぜか東の黒坂、福吉、為本地区と西の池ヶ原、堂尾地区に分離して、それぞれ勝央町と津山市に合併しています。その結果として、旧高取村の中心であったと想像できる場所が市町境のすぐ近くにあるという状況が現在も続いています。 |
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2422.高取小学校跡 |
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2423.高取八幡神社 |
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2424.津山市に入る |
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>拡大画像 八幡神社の案内板 |
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この辺りでは国道を挟んでジグザグに旧道が続いており、津山市に入って最初の分岐では国道の南側に入ります。南の丘陵沿いには供養塔2基と戸川先生之墓という墓石が見られます。 |
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2425.斜め左に旧道 |
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2426.供養塔と戸川先生之墓 |
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旧道が終わったあたりにはかつて津山元標三里の里程標があったそうで、次いでまたすぐに今度は北側の旧道に入ります。古い民家は国道に背を向け、玄関が旧道に面していることが多く、念仏供養塔も見られます。北に見える丘陵には新宮城跡という中世の城跡があり、この付近では平安時代末期に平氏と源氏の合戦が繰り広げられました。源義経が出陣してきたとも言い伝えられ、義経大明神という神社もあります。これらの史跡や伝承地は出雲街道歩きで立ち寄るには少し遠いのですが、その方向へ向かう道が姫新線を渡る踏切は義経踏切と名付けられています。
その旧道が終わるとまた国道を横断して旧道はまた南側に移りますが、ここは特に史跡もなくすぐ終わります。ただ、その先の交差点は国道から一見すると普通の十字路に見えるものの、旧道から見れば古い道筋が交差する地点に現在の国道が割り込んできたように見え、視点を変えて見るのが面白い場所です。 |
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2427.今度は斜め右に旧道 |
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2428.念仏供養塔 |
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2429.北の丘陵沿いは源平合戦の地 |
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2430.またも国道の南側へ |
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国道を何度も渡った池ヶ原地区を過ぎると、次の福力地区では長く旧道が続き、美作大崎駅付近では旧道沿いにちょっとした市街も形成されています。この周辺は瓦に適した粘土質の地質であることから瓦の製造が盛んだったという歴史を持っており、廃屋が多く目につくのも瓦製造業(とそれに関連する商業等)の盛衰を物語るものだと言えそうです。 |
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2431.勝南霊場の札所 |
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2432.美作大崎駅 |
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この付近で有名なのは姫新線の線路の北にある福力荒神社で、須佐之男命を祀るマムシ除けの神社として、古くから信仰を集めていました。旧正月の大祭のときにはかつて臨時列車が出ていたというほどの人出で、現在でも出雲街道を越えて大崎小学校の前まで露店が並びます。 |
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2433.福力荒神社 |
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2434.大祭の日の出雲街道 |
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<3-3.美作インターBS→勝間田駅 |
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4-1.美作大崎駅→河辺→津山駅> |
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- ●地名、人名等の読み方
- 五厘田=ごりんだ
- 役小角=えんのおづぬ
- 為本=ためもと
- 池ヶ原=いけがはら
- 堂尾=どうのお
- 源義経=みなもとのよしつね
- 美作大崎駅=みまさかおおさきえき
- 福力=ふくりき
- 須佐之男命=すさのおのみこと
- ●関連ページ
- ●参考資料
- 美作地域歴史研究連絡協議会「美作の道標と出雲往来一里塚」
- 勝央町文化財保護員会「勝央町の交通」
- 大崎地区歴史を考える会「大崎の歴史と文化 出雲街道界隈編」
- 岡山県文化財保護協会「岡山県歴史の道調査報告書第四集 出雲往来」
- ●取材日
- 2014.9.23/10.23
- 2016.1.31/5.3
- 2018.4.11/9.12
- 2019.6.24
- 2020.1.31/10.5
- 2021.3.24
- 2022.12.10
- 2024.2.10
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