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4-1.美作大崎駅→河辺→津山駅
津山エリア この区間の地図
<3-4.勝間田駅→勝間田宿→美作大崎駅 4-2.津山駅→二宮→作楽神社前BS>
美作大崎駅の西側では福力荒神社への道、続いて国分寺地区への旧道が分岐します。道端には石造物や小社も多く存在している一方で、現在でも旧道沿いに住み続けている若い世代が多いのか非常に新しい家が目立ち、昔も今も田舎なりに賑やかな場所だと感じます。

2501.国分寺への旧道が分岐

2502.道端に石造物群
さらに進んでいけば、左(西)には足腰の痛みに霊験があると言われる光伯地蔵の地蔵堂があります。現在でも多くの信仰を集めているため、お堂も新しく建て替えられており、そこには草鞋が掛けられています。続いて右(東)に見られるのは後醍醐天皇ゆかりの伝承を持つ夜泣き地蔵で、地蔵堂の前には念仏供養塔や常夜燈、六十六部供養塔も並んでいます。

2503.光伯地蔵

2504.夜泣き地蔵
大渡橋で広戸川を渡った200mほど先は、史料や絵図で一里塚があったと記録されている場所ですが、現在では特に痕跡も残されていません。それでもこの付近は旧街道の雰囲気を残した旧国道を長く歩ける場所です。

2505.この付近に一里塚があった

2506.旧道らしい雰囲気
姫新線の線路とぴったり並行するようになる辺りからは線路の辺りが旧街道だったそうで、線路の反対側には踏切もないのに墓地があることがその証拠になっています。なお、当然ながら踏切のないところで線路を横断してはいけませんので、旧街道についての興味だけで線路内に立ち入らないでください。2kmも続いた旧道が終わり、国道に戻る地点には松尾芭蕉の句碑があります。

2507.線路の向こうに墓地

2508.芭蕉句碑
国道に戻ってまたすぐに斜め右への分岐があり、旧道に入ります。今までの旧道に比べて怪しい雰囲気で、現れるのも産廃回収業者にラブホテル2軒という状況でやっぱり怪しいですが、ご覧の皆様に自信を持って歩いていただくためにあえて写真を掲載します。ともあれ、ラブホテルの先の2511の写真の交差点を左折して、丘の上の河辺上之町へ坂道を上っていくのがれっきとした旧街道の道筋です。

2509.ここで斜め右

2510.旧街道の雰囲気とはほど遠い

2511.ここで左折

2512.河辺上之町への上り坂
●河辺上之町
坂道を上って河辺上之町に入ると石垣の桝形があり、その先にかつての庄屋屋敷の立派な長屋門が見られます。この枡形は集落の西の入口付近にもあり、津山盆地に入る手前の最後の丘がちょっとした城のようになっています。案内板に記載されているように、この集落自体が江戸時代初期に意図的に丘の上へ移転させられた集落であることからも、地理的に津山城下町の防衛の要所として重視されていたことが想像でき、いかに平和な江戸時代と言っても、大名が軍事的な視点を持って自らの領国を運営していたことがわかります。また、町の中央付近と西の桝形の脇には道標も残されています。

2513.桝形(東側)

2514.道標も残されている

2515.桝形(西側)
>拡大画像 桝形の案内板
河辺上之町の集落を抜けて国道を横断すると、旧街道の道筋は国道を横断して正面に下り続けますが、姫新線の線路に踏切がないので、右折で国道の橋で姫新線を乗り越えます。ここで眼下にはあっと驚くほどの都市の風景が広がります。新河辺交差点では岡山と鳥取を結ぶ国道53号に国道179号が合流、さらに中国自動車道の津山インターも至近にあるというように、河辺地区は現在の自動車交通においても要衝であるため、今や津山市でも最大の商業集積がある地区になっています。

2516.旧街道は線路に遮られる

2517.久しぶりの都会へ
姫新線を乗り越えるとすぐに階段を下り、その下にある広い屋敷を半周するようにして本来の道筋に戻っていきます。近くの国道沿いに郊外型商業施設が並んでいる場所ですが、旧街道沿いは意外と落ち着いた雰囲気を残しています。

2518.旧街道へは階段を使って復帰

2519.こちらが旧街道

2520.地蔵堂も残る
河辺交差点で国道53号を横断し、まっすぐ西に進んでいきます。2522の写真は少しでも旧街道らしい雰囲気になるように撮っていますが、旧道沿いにも工場があったり、抜け道に利用されたりしているので車の交通量は多いです。

2521.河辺交差点

2522.少しは旧街道らしく
国道の旧道はクランク状に曲がって加茂川に架かる兼田橋に至ります。兼田橋のすぐ南側には現在の国道の新兼田橋が架けられており、その間には移設されたと思われる大きな地蔵と道標が保存されています。

2523.兼田橋へ

2524.兼田橋東詰の地蔵と道標
●兼田橋周辺
兼田橋の西詰には道標が残されています。「播州ひめぢ二十一里」など多くの行先が案内されていますが、その中にある「信州善光寺百五十五里」には驚き呆れます。現在の高速道路でも「長野 620km」などという標識は見たことがなく、出雲街道沿線にある道標としては最も遠い場所を示す道標です。また、この辺りには罪人の処刑場もあったそうですが、道標から河原を少し南に行くと、旧街道で一般的に見るものよりも立派な三界萬霊塔が立てられ、丁重に供養されています。

2525.兼田橋西詰の道標

2526.信州善光寺って…

2527.三界萬霊塔
兼田橋を渡ると、まもなく鳥取と津山を結ぶ鉄道である因美線の兼田踏切を渡り、その後も国道のすぐ北に旧道が長く続きます。まだ津山城下町には入っていませんが、古いものを含む家並みが途切れることなく続くようになり、その状況は津山市街を出るまでずっと変わりません。そのため見落としがちになってしまいますが、2529の写真の地点では斜め右に分岐する道が旧街道です。

2528.因美線を渡る

2529.ここで斜め右へ
旧街道は国道やその旧道の北、丘陵沿いの少し高い位置にあり、道に微妙なカーブがあったり、塞神社で多くの石造物や六地蔵が見られたりすることに旧街道らしさを見出せます。途中で交差する八幡神社の参道は長い石段になっていますが、この参道を下ったところにはB'zの稲葉浩志さんの実家の化粧品店があり、ファンの聖地となっています。

2530.八幡神社の参道

2531.稲葉浩志さんの実家

2532.少し高い位置を行く

2533.塞神社
●玉琳
旧街道の道筋は玉琳で兼田橋からの旧道と合流しますが、その手前には地蔵などの石造物が集まった三差路があり、かつての因幡道が接続しています。ここには一里塚と元禄2年(1689年)の道標があったそうで、現在は復元された道標が立てられています。美作国の一里塚は後述する津山城下の京橋を基準として整備されていましたが、ここは京橋から4kmも離れていないため、実質的に東の出雲街道と北の因幡道の一里塚はこの玉琳の分岐点を基準としていたと言えます。

2534.玉林の石仏群

2535.因幡道はここから分岐

2536.津山ホルモンうどんの有名店も
>拡大画像 玉琳と因幡往来の案内板
続く東松原の街道沿いにはかつて松並木がありましたが、現在では2537の写真の地点辺りからわずかに道幅が狭くなっていることにかすかな痕跡を残している程度です。現在はアートギャラリーとなっている旧津山洋学資料館(旧妹尾銀行)を筆頭に古い建物も多く見られるようになってきて、城下町のすぐ外側のエリアでは比較的古くから市街が拡大してきたことを感じさせます。旧津山洋学資料館から100mほどで新しい広い道路を横断し、さらに200mほど行けば江戸時代からの津山城下町である東新町に入ります。

2537.この付近から松並木があった

2538.旧津山洋学資料館
>拡大画像 東松原と松並木の案内板
●津山城東地区1
東新町から始まる津山城東地区は、平成25年(2013年)に重要伝統的建造物群保存地区に指定されました。最初に現れるのは荒神曲りで、城下町らしく一直線に進めないよう道が屈曲しており、そこから古い街並みが長く続きます。ここからは観光地としての整備が進んでおり、見どころを一つ一つ紹介することはしませんが、要所要所に東新町の例のような案内板が整備されています。そのような案内板でそれぞれの町のストーリーを知るとともに、旧街道に接続する小路などに目を向ければ、津山の城下町の成り立ちや、城下町時代の町割りが今もよく残されていることがわかります。
なお、城東地区は津山を代表する観光地として整備されていますが、車の交通は規制されていませんので交通安全には注意が必要です。ただ、津山市のコミュニティバス「ごんごバス」は東循環線がほぼ出雲街道のルートで貫通し、途中からは小循環線も加わって1時間に1〜2回のバスが確保されているので、便利に観光できるという一面もあります。

2539.荒神曲り

2540.小路にも目を向けよう

2541.ごんごバスが通る
>拡大画像 東新町の案内板
●津山城東地区2
東新町の西端付近から西新町にかけては電線が地中化されていて景観もスッキリしており、同時に津山城東地区の中でも古い街並みが最もよく残っている場所とも言えます。東新町の城東むかし町家は津山でも最大級の規模を誇った商家で、内部が無料公開されています。西新町に入ると新しい津山洋学資料館と箕作阮甫旧宅があります。江戸時代末期に、津山はその箕作阮甫ら多数の洋学者を輩出しており、明治維新前後の日本の近代化に大きく貢献しています。

2542.城東むかし町家(旧梶村家住宅)

2543.津山洋学資料館

2544.さすがの伝建地区
>拡大画像 津山城下町案内図(津山洋学資料館前)設置の城東版
西新町を過ぎたところでまた道が曲げられており、その大曲りからは中之町に入ります。中之町には作州城東屋敷があり、こちらは平成5年(1993年)に建てられたものですが、城東地区に似合う雰囲気の観光施設で、だんじりの展示館もあります。

2545.大曲り

2546.作州城東屋敷
続く勝間田町には平成28年(2016年)に国の重要文化財となった旧苅田酒造と苅田家住宅があり、その一部は令和2年(2020年)に宿泊施設として生まれ変わりました。津山市では近年「観光立市宣言」をして観光に力を入れており、城東地区でも後述する城西地区でも古い建物が次々と観光客向けの店に改装されるなどして、訪れるたびに雰囲気が変わっています。
その次の林田町では2548の写真の和菓子屋で伝統ある和菓子が、その向かいにある系列の洋菓子屋で津山の新名物の「津山ロール」が販売されていて、お土産に最適です。この店だけでなく市内には和洋菓子のブランドは多く、「日本三大菓子処」の松江ほどの知名度はありませんが、津山も美味しいお菓子の宝庫と言えます。林田町を過ぎると、またも鉤型に曲がった道で橋本町を通過して大橋に至ります。

2547.苅田家住宅付近

2548.林田町の和菓子屋

2549.橋本町でまた曲がる
>拡大画像 勝間田町の案内板
●大橋
大橋は津山盆地を南北に貫く宮川に架かる橋で、橋上からは鶴山公園(津山城跡)の石垣もよく見えます。津山城は南の吉井川、東の宮川を天然の堀とした平山城ですが、往来の多い出雲街道から宮川を渡ってきた大橋の西詰はまさにその防御の要と言える場所なので、ここには東の大番所が置かれていました。そして、大橋は明治時代になってからも岡山県北部の交通の要であり続け、現存していませんが、その西詰には「津山元標」が置かれていました。出雲街道にも8基が残る明治の里程標はこの大橋西詰が基点です。

2550.大橋

2551.東大番所跡
>拡大画像 東大番所跡の案内板
材木町、伏見町と西へ進み、2553の写真の交差点では鶴山公園(津山城跡)に立ち寄るため右折することにします。伏見町の家並みの裏には水路がありますが、これは津山城の外堀の痕跡です。この水路の北にはほとんど建物がなく、広い駐車場になっていることからも、かつてはもっと幅のある堀があったことがわかります。

2552.材木町

2553.伏見町で右折

2554.堀の跡
突き当たりにある津山郷土博物館は昭和8年(1933年)に建てられた旧津山市役所で、外装も内装も重厚な作りになっています。勝間田の旧勝田郡役所もそうでしたが、昔は役所の建物を地域のシンボルにふさわしいものにしようというという考えがあったことが窺えます。美作国を代表する歴史博物館だけに展示物にも見るべきものが多くあり、中でも江戸の町の鳥瞰図である「江戸一目図屏風」は東京スカイツリーに複製が展示されて話題となりました。また、郷土博物館の前には市内の道路整備等により撤去されたと思われる道標が多数保存されており、古道歩きをしている者にとっては必見の展示となっています。

2555.津山郷土博物館

2556.道標多数
津山郷土博物館の西隣には津山観光センターがあり、津山近辺の観光パンフレットや土産物が一通り揃う観光拠点となっています。さらにその西に隣接して森本慶三記念館(旧津山基督教図書館)があります。また、鶴山公園への登り口にはつやま自然のふしぎ館もあり、こちらは動物の剥製等が数多く展示されている珍しい博物館です。

2557.津山観光センター

2558.森本慶三記念館

2559.つやま自然のふしぎ館
●鶴山公園(津山城跡)1
鶴山公園(津山城跡)は、織田信長の寵愛を受けたことで知られる森蘭丸の弟である森忠政が関ヶ原の戦いの後に美作国を与えられ、その本拠として建設した近世城郭です。全国屈指と言えるほどの石垣の壮大さを誇るだけでなく、公園中に植えられた桜も見事で、「日本100名城」「日本さくら名所100選」にも当然のように選ばれている地域のシンボルです。中枢部まで入場するには入場料がかかりますが、城好きなら石垣や縄張りを見て半日は過ごせそうなくらいの価値はあります。上層部まで行けば津山市街が一望でき、東は河辺まで、西は院庄までの約4kmは確かに確認できます。この道筋を歩いてきて、また、これから歩いていくと思うと感慨深いものがあります。

2560.壮大な石垣

2561.ここまで来た道

2562.ここから行く道
●鶴山公園(津山城跡)2
津山城は明治の廃城令で建物はすべて取り壊されてしまったのが惜しまれるところですが、備中櫓のみは平成17年(2005年)に再建されており、内装も含めてかつての姿が忠実に再現されています。また、「よみがえれ津山城天守」というアプリで天守台を撮影してみたり、天守台の石垣にあるハート形の石探しを探してみたりと、津山を代表する史跡の新しい楽しみ方も地元発の取り組みとして追加されています。

2563.再建された備中櫓

2564.天守閣はありませんが…

2565.ハート形の石を探そう
>拡大画像 津山城跡の案内板
鶴山公園(津山城跡)を出ると、2566の写真の交差点を左折します。この道は津山城のかつての正面入口にあたる道で、出雲街道の道筋に戻る途中、先述した堀の痕跡には京橋御門跡の石碑があります。ここに架かっていた京橋は江戸時代の美作国における各街道の基点ともなっていました。

2566.左折で街道筋に戻る

2567.京橋御門跡
街道筋に戻って西に進路を戻すと、まもなく京町交差点で市街中心部を南北に貫通する鶴山通り(県道394号)と交差します。旧街道はもちろん直進で西へ進み続けますが、左折すると今津屋橋で吉井川を渡って津山駅に至ります。駅前広場が平成29年(2017年)に再整備されたのに対し、駅そのものはバリアフリー化や交通系ICカードの対応がなされていないなど、新しい設備の整備が遅れてしまっています。しかし、構内に残された扇形機関車庫は全国的にも貴重な鉄道遺産であり、その歴史的価値を活かすべく、平成28年(2016年)には津山まなびの鉄道館がオープンしました。

2568.京町交差点

2569.津山駅
<3-4.勝間田駅→勝間田宿→美作大崎駅 4-2.津山駅→二宮→作楽神社前BS>
  • ●地名、人名等の読み方
    •  大渡橋=おおわたりばし
    •  広戸川=ひろとがわ
    •  河辺=かわなべ
    •  兼田=かねた
    •  因美線=いんびせん
    •  稲葉浩志=いなばこうし
    •  玉琳=ぎょくりん
    •  妹尾=せのお
    •  箕作阮甫=みつくりげんぽ
    •  林田町=はいだまち
    •  苅田家=かんだけ
    •  鶴山公園=かくざんこうえん
    •  森本慶三=もりもとけいぞう
    •  基督教=きりすときょう
    •  森蘭丸=もりらんまる
    •  森忠政=もりただまさ
    •  院庄=いんのしょう
    •  備中=びっちゅう
          
  • ●関連ページ       
  • ●参考資料
    •  美作地域歴史研究連絡協議会「美作の道標と出雲往来一里塚」
    •  大崎地区歴史を考える会「大崎の歴史と文化 出雲街道界隈編」
    •  河辺の歴史を考える会「河辺のむかしと今」
    •  尾島治「絵図で歩く津山城下町」
    •  津山市「出雲街道復元計画」
    •  岡山県文化財保護協会「岡山県歴史の道調査報告書第四集 出雲往来」
          
  • ●取材日
    •  2014.10.23
    •  2015.7.5
    •  2016.1.31
    •  2017.12.3
    •  2019.2.11
    •  2020.1.31/2.23
    •  2021.3.24
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