トップページ > 出雲街道の道のり > 4-2.津山駅→二宮→作楽神社前BS
4-2.津山駅→二宮→作楽神社前バス停
津山エリア この区間の地図
<4-1.美作大崎駅→河辺→津山駅 4-3.作楽神社前BS→坪井駅>
京町交差点から西の街道筋は津山の中心商店街で、最初のソシオ一番街はきれいなアーケード街です。ソシオ一番街の町名は東半分が京町、西半分が堺町および二階町となっていおり、この付近では町の境界と現在の主要な道路や商店街が一致していないことがわかります。平成11年(1999年)にオープンした再開発ビルのアルネ津山に突き当たると、中に入って催し物のコーナーと化粧品店の間の通路を右折します。別に外を歩いてもいいのですが、再開発前の商店街の記憶を残している者としては、それが昔の道筋を歩くことだとこだわらせていただきます。このような思いは地元住民の中にもあったようで、「第6回絵図で津山城下町を歩く会」で帰り道をご一緒させていただいた方によれば、アルネ津山の開業当初は上記の通路を営業時間外でも通れるようにしていたそうです。結局は防犯上の理由で営業時間内しか通れなくなりましたが、津山市民の出雲街道に対する思いの強さを物語るエピソードと言えます。

2601.ソシオ一番街からアルネ津山へ
●津山商店街
アルネ津山を北に出ると次は元魚町で、アーケードの商店街が続きます。その南半分の銀天街は天井に鏡が張られ、文字通りの銀天街になっているのが大きな特徴です。再開発によりその大半が失われ、老朽化のためか鏡も一部を除いて撤去されていますが、2602の写真の地点では津山城のイラストが天井に映りこんでいるのが見られます。商店街が寂れてきていることには寂しさを禁じえませんが、かつての繁栄を思わせるこのような商店街の景観は、昭和時代の史跡として、近い将来に価値が再評価されることになるような気がします。旧街道の道筋はここで左折して本町に入ります。

2602.銀天街の天井に映りこむ津山城
続いて本町二丁目、三丁目と進んでいきますが、この本町という地名は江戸時代にはなかった町名で、「二丁目」「三丁目」と呼ばれていました。元魚町が「一丁目」だったという説もありますが、なぜこの界隈だけが町名なしの「○丁目」となっていたのか、詳細は明らかになっていません。この辺りはアーケードも老朽化し、営業している店舗の方が少ないような姿ですが、しゃれた雰囲気の店づくりをしてがんばっているところもあります。なお、商店街の名誉のために補足しておきますが、あらぬ誤解や肖像権侵害を防ぐため、市街部での写真は人があまり写りこまないタイミングを選んで撮影していますので、平均的な姿よりも人通りが少なく見えるようになってしまっています。

2603.二丁目(二番街)

2604.三丁目
本町三丁目の商店街を抜けると、右折して県道68号の大通りに入ります。再開発で道路が大幅に拡幅されたことにより雰囲気がなくなっていますが、ここは城東地区で何度も見た城下町の道の曲りです。旧街道の道筋はまたすぐに2605の写真の信号交差点を左折して坪井町に入りますが、この北にある田町の方へ少し寄り道することにします。まず、200mほど北には「出雲大社」(美作分院)があり、道路の拡幅に合わせて新しくなってしまっているとは言え、出雲の本家と共通する雰囲気も感じられます。もちろん、ここに祀られているのは大国主命で、参拝の作法も「二礼四拍手一礼」です。このような出雲大社の分院は他にも各地にあります。

2605.広い幹線道路に出る

2606.出雲大社(美作分院)
田町は武家屋敷があった地区で、出雲大社の北の通りを西に行けば、今も当時の姿をとどめたような家が残っていたりします。突き当りを左折したところにある中島病院では、大正6年(1917年)に建てられたかつての本館が城西浪漫館として公開されており、カフェも併設されています。余談ながら、先述した洋学者たちは当時の日本語で表現できない欧米の言葉の置き換えや当て字をしたのもその功績の一つで、一例として「珈琲」という当て字を考案したのは津山出身の宇田川榕菴です。続いて中島病院の南の道を少し東へ戻れば、平成29年(2017年)にオープンしたばかりの津山城下町歴史館があります。だんじりを見られるのが特徴となっていますが、もう一つ注目すべきはこの施設の敷地全体が一つの武家屋敷だったということで、上級武士の屋敷はかなり広かったことがわかります。

2607.城西浪漫館(旧中島病院本館)

2608.津山城下町歴史館
>拡大画像 旧中島病院本館(城西浪漫館)の案内板
街道筋に戻ると、南には津山城下町を代表する徳守神社があり、その付近は徳守神社にちなんだ町名の宮脇町です。その100mほど西では大正15年(1926年)に架けられた登録有形文化財の翁橋で藺田川を渡ります。藺田川は水路のような細い川ですが、その流れは明らかに人工的に曲げられているほか、かつて東岸には土塁が築かれ、竹が植えられていたという、津山城下町の西の重要な防御施設としての役割を担っていた川です。翁橋東詰には西の大番所も設置されており、藺田川と翁橋は東の宮川と大橋と全く同じ役割を果たしていたと言えます。

2609.徳守神社

2610.西大番所跡と翁橋
>拡大画像 翁橋の案内板
●津山城西地区
翁橋を渡ると西今町に入り、すぐに登録有形文化財となっている作州民芸館があります。この建物は土居銀行として大正9年(1920年)に建てられたものだとされていますが、実際はもっと古く、明治42年(1909年)に建てられたという最近の研究成果もあります。城西地区は明治31年(1898年)に中国鉄道(現在のJR津山線)が現在の津山口駅まで開通してから、大正12年(1923年)に現在の津山駅が開業するまでの約25年間、駅と中心市街の間の街として繁栄を謳歌していたそうで、西今町には明治〜大正時代に建てられたと思われる家並みが目立ちます。一方で、西今町が繁栄した時期は明治〜大正時代であり、その当時だと自動車の走る広い道路が縦横無尽に整備されたわけではないので、江戸時代の城下町の町割りはほぼそのまま残されています。城東地区に引き続き、令和2年(2020年)には重要伝統的建造物群保存地区にも指定されました。

2611.作州民芸館(旧土居銀行本店)

2612.作州絣工芸館

2613.西今町の街並み
>拡大画像 作州民芸館(旧土居銀行本店)の案内板
>拡大画像 西今町の案内板
西今町の次の西寺町では文字通り寺院ばかりが立ち並んでいて、寺院を城下町の西端(藺田川の外側)に集中させようした江戸時代初期の「都市計画」を見ることができます。家屋が密集している西今町に対し、西寺町は白壁に囲まれた大きな寺院ばかりで建物の密度が疎らになり、その変化はあまりにも鮮やかです。さらにその次の茅町では2615の写真の変則的な五差路の交差点を右折します。津山城下町もあとは安岡町を残すのみですが、その安岡町が後付けでできた町であることを感じさせます。

2614.愛染寺の仁王堂付き鐘楼門

2615.茅町では右折
>拡大画像 寺町界隈案内図
津山城下町の中でも最後に編入された安岡町を過ぎて再度左折すると、筋違橋で紫竹川を渡り、津山の城下町が終わります。とは言え、市街地が拡大した現在ではここで急に田園風景に戻るわけではありません。

2616.安岡町

2617.筋違橋
>拡大画像 安岡町の案内板
筋違橋を渡ると、後述する高野神社の鳥居前まで約1.5kmもの間、一直線の平坦な道が続きます。この辺りの平地は江戸時代初期の水害や津山藩の堤防の建設により、吉井川と紫竹川の流れが現在と同じ形に固定されたことによって誕生したもので、少し北の丘陵沿いを通っていた街道もこの平地を一直線に貫く形に改められ、「二宮の松原」と呼ばれる松並木も整備されました。松並木は戦時中の昭和18年(1943年)に木材供出のために伐採されてしまいましたが、松原という地名は今も残っています。しかし、江戸時代のこの付近は市街化した現在では想像できないほど寂しい場所だったそうで、津山藩が茶屋を開かせたという記録が残っており、その跡地には案内板が設置されています。また、だんじりの格納庫もある西松原公会堂の前には芭蕉句碑の「月見塚」が立てられています。

2618.吉井川の堤防沿いを一直線

2619.月見塚
>拡大画像 二宮松原街道御茶屋の跡の案内板
二宮交差点で国道と交差、続いて姫新線の線路を渡ります。その踏切は出雲街道が初めて津山以西で姫新線と交差する踏切であり、第一出雲踏切と名付けられています。さらに900mほど西へ行くと、高野神社の鳥居手前に明治時代の津山元標壱里の里程標も残っています。

2620.二宮交差点

2621.その名も第一出雲踏切

2622.津山元標壱里

2623.高野神社の鳥居
●高野神社と宇那提の森
筋違橋から一直線に西進してきた街道は高野神社の鳥居にぶつかり、鳥居をくぐったところには樹齢700年とも言われる宇那提の森の古木が1本だけ残っています。参道を進んでいくと、北側にある屋敷へ上る階段の付近は梅林となっており、屋敷の門前を線路が横切っているという珍しい風景が見られます。この家からは明治時代に実業家・政治家として活躍した立石岐を輩出しており、階段の付近に顕彰碑も立てられています。そして高野神社自体も境内に国指定の重要文化財が3つもあるという美作国の「二宮」の由緒ある神社で、周辺も多様な歴史を持っていることもあって、隣の道路がかつての国道179号であるにも関わらず、参道は道路拡幅に利用されることもなく、個性的な姿を保っているのが大きな特徴となっています。また、高野神社付近では北の丘陵が吉井川まで張り出していることもあり、かつては津山の出雲街道沿いでは随一の景勝地と呼ばれていた場所でもあります。

2624.宇那提の森の古木

2625.立石岐翁の碑

2626.高野神社の本殿
>拡大画像 宇那提の森の案内板
>拡大画像 立石岐先生顕彰之碑の案内板
>拡大画像 高野神社の指定文化財
●街道分岐点と首なし地蔵
高野神社のすぐ西には旧々伯耆街道分岐点があります。「旧々」とあるのは、旧伯耆街道分岐点が100mほど西にあり、現在の出雲街道と伯耆街道の分岐点はさらに1kmほど西の院庄交差点だからで、時代とともに街道(道路)が移り変わっていることがとてもよくわかる場所だと言えます。その旧々伯耆街道分岐点と旧伯耆街道分岐点との間には「首なし地蔵」があり、由来は案内板でご確認いただくとして、首のない地蔵が5体並んでいる姿は不気味で、夜通ると怖い場所です。また、痕跡すら残っていませんが津山以西で最初の一里塚もこの付近にありました。続く旧伯耆街道の分岐点では出雲街道は左で、もうしばらく吉井川沿いを行くことになります。

2627.首なし地蔵

2628.旧々伯耆街道分岐点

2629.旧伯耆街道分岐点
>拡大画像 首なし地蔵の案内板
出雲街道は滑川という小さい川を渡った先で道なりに右折し、院庄地区に入っていきます。現在、院庄地区と言えば津山市民でも院庄駅から院庄インターあたりをイメージすると思いますが、院庄の古くからの集落はやはりその南にある旧出雲街道沿いにあります。

2630.滑川を渡って右カーブ
●にらみ合いの松
滑川を渡って500mほど行ったところにある「にらみ合いの松」は、傾奇者として名を馳せた名護屋山三郎が、同じ津山藩家臣である井戸宇右衛門と刃傷事件を起こし、両者とも死亡したという地です。両者の墓には松が植えられ、現在も植え替えられた松が「にらみ合い」を続けています。「傾奇者」の名護屋山三郎が出雲阿国と出会い、歌舞伎につながる阿国の「かぶき踊り」に影響を与えたとも言われており、それは伝説の域を出ない話ですが、名護屋山三郎も出雲阿国も出雲街道に縁のある人物であることに間違いはありません。

2631.にらみ合いの松
>拡大画像 にらみ合いの松の案内板
にらみ合いの松を過ぎたところで道路は直進と斜め左に分かれます。斜め左の道を行けば近いので正解のように思えますが、旧街道は直進して2633の写真の交差点を左折、地神と石灯籠がある次の交差点をまた右折という道順になっています。津山城下町で何度も見た直角の曲がりはこのような場所にもあり、これから入っていく院庄の町が津山の西の拠点として重視されていたことを感じさせます。

2632.直進した後で

2633.左折
>拡大画像 地神・石灯籠の案内板
●院庄
旧街道沿いにある昔からの院庄の町は、同じ院庄地区における新しい道路沿いの一帯のような発展とは無縁の状況ですが、その分、古い民家も多く残り、水路も流れているという昔ながらの町の形を残しています。令和4年(2022年)には要所に「院庄史跡研究会」により、史跡の案内板も整備されました。現在では畑になってしまっていますが、家並みの北側には構城という城の跡もあり、まさに津山盆地の西の拠点であったと感じさせます。街並みの途中に常夜燈と作楽神社分かれの道標があり、そこから津山市西部を代表する史跡である作楽神社に立ち寄ることにします。

2634.院庄の街並み

2635.構城址

2636.常夜燈と作楽神社道標
>拡大画像 雲州侯御茶屋跡の案内板
>拡大画像 道標・石灯籠の案内板
●作楽神社
道標から北へ600mほどのところにある作楽神社は、元弘の変に敗れて隠岐に流される途中の後醍醐天皇を救出しようとし(て失敗し)た児島高徳が、十字の詩で天皇を励ました故事の舞台として知られています。ここでは両手をついた銅像ばかりが印象的ですが、戦前には忠臣の鑑としてその故事が唱歌にまでなった英雄でした。境内の案内板の記述等もその影響なのか少々右寄りな感じですが、それも含めてある意味貴重な史跡と言えます。また、後醍醐天皇と児島高徳の伝承の地というだけでなく、ここは美作国の守護所が置かれていた院庄館跡でもあり、江戸時代に津山城が築かれるまでは美作国の中心地でした。堀や土塁が現存しており、その意味でも貴重な史跡となっています。

2637.作楽神社

2638.児島高徳

2639.院庄館跡の堀や土塁も
>拡大画像 作楽神社の案内板
>拡大画像 院庄館跡の案内板
さて、たつの市の船渡交差点から長く付き合ってきた国道179号と別れるのはこの院庄です。作楽神社の東にある作楽神社前バス停のすぐ南の院庄交差点で(津山市街方面から来た場合)国道179号は右折し、現代の伯耆街道として人形峠を越えて倉吉へ向かいます。沿線には奥津温泉や三朝温泉があります。そして出雲街道は直進して国道181号となり、真庭市を経て四十曲峠を越えて米子を目指します(ここから先、本文中で単に「国道」と書いている場合、国道181号を指しています)。この地点で姫路から出雲大社までの約1/3で、まだまだ先の道のりは長いです。

2640.院庄交差点

2641.出雲街道は国道181号に
<4-1.美作大崎駅→河辺→津山駅 4-3.作楽神社前BS→坪井駅>
  • ●地名、人名等の読み方
    •  作楽神社=さくらじんじゃ
    •  大国主命=おおくにぬしのみこと
    •  宇田川榕菴=うだがわようあん
    •  藺田川=いだがわ
    •  翁橋=おきなはし
    •  筋違橋=すじかいばし
    •  紫竹川=しちくがわ
    •  宇那提の森=うなてのもり
    •  立石岐=たていしちまた
    •  滑川=なめらがわ
    •  傾奇者=かぶきもの
    •  名護屋山三郎=なごやさんさぶろう
    •  井戸宇右衛門=いどうえもん
    •  児島高徳=こじまたかのり
    •  三朝=みささ
    •  四十曲峠=しじゅうまがりとうげ
          
  • ●関連ページ       
  • ●参考資料
    •  尾島治「絵図で歩く津山城下町」
    •  小谷善守「出雲街道 第4巻 院庄−二宮」
    •  小谷善守「出雲街道 第5巻 安岡町−西寺町−宮脇町−坪井町」
    •  美作地域歴史研究連絡協議会「美作の道標と出雲往来一里塚」
    •  岡山県文化財保護協会「岡山県歴史の道調査報告書第四集 出雲往来」
          
  • ●取材日
    •  2014.10.23
    •  2015.10.26
    •  2016.5.31
    •  2017.7.29/12.3
    •  2018.1.3/9.12
    •  2020.2.23
    •  2022.12.10
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