トップページ > 出雲街道の道のり > 6-3.美甘振興局前BS→美甘宿→新庄宿→新庄村役場前BS
6-3.美甘振興局前バス停→美甘宿→新庄宿→新庄村役場前バス停
真庭西部エリア この区間の地図
<6-2.八反BS→美甘振興局前BS 6-4-1.新庄村役場前BS→四十曲峠>
●美甘宿1
美甘宿は「てまり街道」として旧街道沿いの民家の軒先に地元の伝統工芸品であるてまりが吊るされており、勝山ののれんほど遠目のインパクトはありませんが、趣向を凝らしたてまりが見ものです。また、旧街道の街並みの中にある「香杏館」は美甘が生んだ名医である横山香杏(横山廉造)が薬の調合場として使用した建物で、現在は美甘の食材を使った昼食やお茶が楽しめるカフェとなっています。

3401.「てまり街道」と香杏館
>拡大画像 横山廉造(香杏)の案内板
●美甘宿2
美甘自体は次の新庄よりも古い歴史を持つ町ですが、現在の美甘市街は江戸時代初期に出雲街道とともに整備された宿場町です。そのため、新しい美甘の街の発展を目指す美甘の人々からの要請で勝山の塚谷屋が出店したという歴史があり、以来、松江藩の参勤交代の際に本陣が置かれることの多かった新庄に対し、美甘は経済の町としての色彩が強くなったと言われています。その塚谷屋跡から少し西、美甘小学校の東側の交差点にはその名も「かどや」という旅館があり、ここで旧街道の道筋は屈曲して一本南に移ります。美甘宿の東半分では宿場町につきものの水路が見えませんでしたが、ここからは水路が登場し、街並みの裏を通っていたことがわかります。勝山以西の出雲街道は、中海や宍道湖のうなぎを運ぶ「うなぎの道」としての役割も持っていましたが、「うなぎ池」もこの水路沿いに残っています。

3402.塚谷屋跡

3403.「かどや」を左折

3404.うなぎ池
>拡大画像 塚谷屋の案内板
美甘神社の前を通過して美甘宿を出ると、麓城という山城があった小高い丘を北に見ながら国道を進み、美甘こども園とJAの美甘支所の間にある3407の写真の地点で斜め右に入ります。

3405.美甘神社

3406.右は麓城跡

3407.斜め右で山沿いへ
美甘宿周辺で地形が平坦になるのは一時的なものではなく、新庄までの間は勝山から美甘までの険しさが嘘のような穏やかな地形になります。国道はその平地の中央を直線的に貫いているのに対し、集落および旧街道は平地の北の端にあります。当政集落では集落内に旧街道が通っていて、現在では何も残されていませんが、3408の写真の地点の付近には一里塚もあったそうです。3409の写真の地点では右が旧街道と思われますが、民家の敷地内へ突っ込んでいってしまうので、いったん左折で一本南の道に出ます。

3408.当政集落内

3409.ここはいったん左へ
通行可能な道でなるべく限り山沿いを進むイメージで続く片岡集落内を進んでいき、そして3412の写真の交差点のところからは昔のままの姿を残した旧街道が再登場します。旧美甘村が設置した標柱が立っているものの、見えづらくなってしまっているので、3412の写真の朽ちかけた蔵の左奥に進んでいくと覚えておいてください。

3410.なるべく山沿いへの道を選ぶ

3411.ここは旧街道

3412.お堂もある

3413.本物の旧街道が再登場
●美甘西部の出雲街道
片岡から平島の両集落の間では昔のままの旧街道が1km以上も続きます。この辺りは小盆地になっているとは言え、農地に適した平地の面積は限られているので、わずかな平地を少しでも多く利用するため、旧街道は山沿いの集落のさらに裏を通っています。出雲街道沿線では随所で見られる土地利用の方法ですが、都市的な開発と無縁なこの辺りで最も典型的に見ることができます。一方で旧街道のさらに山側には墓地が多く、地元の人達が歩いて通るためか、旧街道時代から脈々と続いている地元の生活感もよく残されています。3416の写真の地点から先は草が伸びて荒れがちな状態になっているため、一段下を通っている道を進むのが良いでしょう。

3414.古木の間に道が続く

3415.山側(北側)には墓地が多い

3416.ここから先は一段下の道路へ
3417の写真の地点では斜め右に進んで、平島集落に到着するまで土道を進みます。厳密にはここは旧街道ではなく、一段上に先ほど回避した旧街道が並行しています。集落に入ったところでは右(東)の山手に供養塔や荒魂神社があります。

3417.ここは斜め右

3418.平島集落に到着

3419.念仏供養塔、大峯山供養塔、地蔵
平島の集落の途中、3420の写真の地点で左に見える民家の方に下りていくと、その入口に道標があります。設置の場所から考えても向きから考えても明らかに移設されたものですが、「左ハ雲州」と明確に出雲街道を指したものです。なお、この道標は道のすぐ側とは言え、民家の敷地内に置かれていますので、お立ち寄りの際は十分そのことをご承知おきください。

3420.左の民家には…

3421.出雲を指す道標
平島集落でも途中から昔のままの旧街道が残されており、やはり集落の裏の山沿いに未舗装の道が400mほど続きます。

3422.平島でも旧街道が残る

3423.ここも集落の裏に歩きやすい道
平島の集落の終わりには美甘惣社の小社があり、その先にも山沿いに旧街道が続いている様子が見えますが、この先は道が荒れてしまっているので、いったん国道に出ます。なお、ここから現在の道路で平島集落に戻ったところには薬師堂があります。ここの薬師像は何と平安時代末期に作られたと推定されるもので、薬師堂の中には地元の伝承がたくさん記載された手作りの出雲街道案内図も設置されているので、少し戻る形で立ち寄ってみても良いでしょう。

3424.美甘惣社

3425.平島の薬師堂
>拡大画像 薬師三尊像の案内板
>拡大画像 平島付近の出雲街道の案内板
続く野尾集落内の旧街道は荒れてしまっているところが多いので国道を歩きますが、3426の写真の交差点を右折すれば、ほんの100mほどとは言え、最後にまた良い状態の旧街道が残されています。その違いは何なのかと注意して見ると、荒れてしまった道の脇は概して空き家で、きれいな状態の道の脇にはしっかりした生活感のある家があることが多いのに気づきます。その意味でも旧美甘村西部の出雲街道は今も地元の暮らしと結びついている道と言えそうで、地元の方々の暮らしがあってこそ古道歩きが楽しめるのだと感じさせられます。かつての姿を残した旧街道が終わるところには古い六地蔵があり、国道を行き交う車を今も見守り続けています。

3426.ここで右に行けば…

3427.またきれいな状態の旧街道

3428.野尾の六地蔵
300mほど国道を西進したところから始まる次の羽仁集落では、やはりまた旧街道が小平地の北端を通り、古くからの家並みもその道沿いにあります。羽仁は美甘と新庄のほぼ中間点に位置するため、歴史的に2つの町の間を取る形で施設が置かれたりすることが多く、かつては牛馬市が開かれており、現在でも真庭消防署の美新分署が国道沿いにあります。

3429.右折で羽仁へ

3430.集落はやはり山沿い
羽仁の集落を出て国道に戻るとまもなく新庄村に入り、500mほど先の大所橋で新庄川を渡ります。新庄川にはずっと並行し続け、国道や旧国道はこれまで幾度も渡ってきましたが、実は江戸時代の旧街道ルートとして渡るのはこれが初めてです。なお、旧街道時代に新庄川を渡る地点はもう少し下であったと言われています。

3431.新庄村に入る

3432.大所橋を渡る
大所集落の真ん中にある交差点を右折し、田園地帯を北上していきます。新庄村に入ると旧美甘村西部とは逆に左岸より右岸の方が平地が広くなっており、そういった場所を選んで新庄川を渡るコースで街道が設計されていたことが窺えます。しかし、これまた旧美甘村西部とは逆に旧街道は失われてしまっており、史跡は山沿いに清正公大神儀という石碑が残されているのみで、その付近にあったという姿の一里塚も痕跡を残していません。

3433.大所公民館の交差点を右折

3434.清正公大神儀

3435.姿の一里塚はこの辺り?
新庄村の中心部に入っていく直前に、丸山石造物群という明治44年(1911年)の疫病で亡くなった人々を弔うための石仏群があります。次いで対岸に現れるのは今井河原刑場跡という処刑場の跡で、ここで先述した山中一揆の首謀者格の5人が処刑されたそうです。こうした負の歴史を語る史跡に少し暗い気分にさせられてしまいますが、それも歴史ある街道の村であり、宿場町である一つの証と言えるでしょう。

3436.丸山石造物群

3437.今井河原刑場跡
>拡大画像 丸山石造物群の案内板
>拡大画像 今井河原刑場跡の案内板
今井河原刑場跡のところに架かる今井橋から桜並木が始まり、正面には新庄宿の街並みも見えてきますが、まっすぐ新庄宿へ続く道は新しい道で、旧街道の道筋は六十六部供養塔のある3439の写真の地点で斜め左へ行きます。

3438.六十六部供養塔

3439.ここは左へ
新庄宿も多くの宿場町と同様、出入口付近でわざと道筋が曲げられていて、その途中から新庄宿へ続く家並みが始まります。突き当たりを右折、またすぐに左折の順でがいせん桜通りに入っていきますが、そこから少しだけ南に戻り、宝田橋で新庄川を渡れば「道の駅がいせん桜新庄宿」があります。新庄川の右岸堤防にはしだれ桜が、左岸も含む土手には芝桜が植えられ、ソメイヨシノの季節を少し外してしまっても花を楽しめるようになっています。

3440.地蔵など石造物が集まる

3441.街並みが始まる

3442.左折でがいせん桜通りへ

3443.宝田橋から見た新庄川と新庄富士
「道の駅がいせん桜新庄宿」は、私などが紹介せずとも新庄村を観光するならほとんどの人が立ち寄るであろう道の駅ですが、ここでは新庄村の名産品である「ひめのもち」および「ひめのもち」を使用した様々な製品が販売され、レストランでも「牛餅丼」など餅メニューが出されています。

3444.道の駅がいせん桜新庄宿

3445.牛餅丼
●新庄宿1
新庄宿では道の両側に、日露戦争の戦勝を祝して植えられた「がいせん桜」の桜並木が続いています。小さな山奥の村が大いに賑わう「がいせん桜祭」が開催される春はもちろん、夏の青葉、秋の紅葉、そして冬の雪化粧と、四季折々の姿が訪れる人々を魅了しています。近年では街並みの中にある「咲蔵家」を中心に、村の自然の豊かさや景観のすばらしさを活かした取り組みも活発になってきており、令和元年(2019年)には待望の宿泊施設として、がいせん桜並木とほぼ同じ築100年ほどの古民家を改装した「新庄宿須貝邸」もオープンしました。新庄村出身の若い料理人による、地元の旬の食材を使用した本格的な料理が特色となっているほか、宿泊しなくとも新庄らしさを体感できる様々なメニューが用意されています。

3446.春のがいせん桜通り

3447.咲蔵家と新庄宿須貝邸

3448.人生のひと呼吸を、この場所で
>拡大画像 がいせん桜並木の案内板
●新庄宿2
がいせん桜ばかりに目が行きがちですが、新庄宿はその街並みも良好な状態で残されています。中でも脇本陣木代邸は江戸時代末期の建物が残り、「さくら茶屋」として営業しているときは内部を見学できます。その正面にある雲州候本陣は明治時代に建て替えられていますが、それでも出雲街道がまだ本来の機能を保っていた頃の立派な建物には本陣を務めた家らしい貫禄があります。そして本陣も脇本陣もそうですが、新庄宿では赤い石州瓦の家屋が大半を占め、これから行く山陰地方の景観の象徴とも言える石州瓦の多さに、文化的にも山陰側の影響が強まってきたことを感じさせます。また、通りの両側にある水路には、かつて(高貴な)旅人に振る舞われたという鯉が泳いでおり、普段は閑静な街並みの中で聞こえる水路のせせらぎは「日本の音風景100選」にも選出されています。なお、水路はかつて道の中央にあり、坪井宿同様の「麦飯町」となっていたそうです。

3449.雪の脇本陣木代邸

3450.雲州候本陣

3451.鯉も泳いでいます
>拡大画像 出雲街道宿場町の案内板
>拡大画像 日本の音風景百選の案内板
旧街道の道筋はがいせん桜の終わる御幸橋で戸島川を渡って左折しますが、直進して国道を横断したところには新庄村役場などの公共施設が集まっています。新庄村は明治時代に市町村制が始まってから現在に至るまで一度も合併をしていません。人口1,000人にも満たない過疎の村のため、当然のごとく「消滅可能性」が指摘されていますが、「出雲街道」「ひめのもち」に加え、貴重な種を含む動植物が見られ、森林セラピーが楽しめる「毛無山」というすばらしい地域資源を有し、「日本で最も美しい村連合」にも加盟しています。役場に掲げられた「村民一家族の村」という看板も誇らしげに感じます。

3452.御幸橋を渡って左折

3453.新庄村役場
<6-2.八反BS→美甘振興局前BS 6-4-1.新庄村役場前BS→四十曲峠>
  • ●地名、人名等の読み方
    •  横山香杏(横山廉造)=よこやまこうきょう(よこやまれんぞう)
    •  塚谷屋=つかたにや
    •  当政=とうまさ
    •  平島=ひらじま
    •  野尾=のお
    •  羽仁=はに
    •  大所=おおどころ
    •  木代=きしろ
    •  毛無山=けなしやま
          
  • ●関連ページ       
  • ●参考資料
    •  出雲街道勝山宿の会「出雲街道(1)ガイドブック」
    •  畔高義正「出雲街道と新庄盆地をめぐる」
    •  小谷善守「出雲街道 第1巻 松江−米子−新庄−美甘」
    •  美作地域歴史研究連絡協議会「美作の道標と出雲往来一里塚」
    •  岡山県文化財保護協会「岡山県歴史の道調査報告書第四集 出雲往来」
          
  • ●取材日
    •  2015.3.26/5.2/5.3/5.21
    •  2017.1.13/4.20/11.29
    •  2018.4.11/11.29
    •  2019.10.24
    •  2022.4.6/4.25
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