トップページ > 出雲街道の道のり > 8-2.遠藤BS→車尾→米子駅
8-2.遠藤バス停→車尾→米子駅
米子エリア この区間の地図
<8-1.伯耆溝口駅→岸本→遠藤BS 8-3.米子駅→陰田→吉佐BS>
遠藤地区の集落の出口には斜め左に旧街道の痕跡と思われる斜め左への細道が見られます。正確な場所はわかりませんが、一里塚もこの付近にあったそうです。集落を出れば、また広大かつ整然とした田園地帯を北上し、4102の写真の交差点を左折します。この道は伯耆町と米子市の境界になっていて、まもなく米子市の水浜地区に入ります。

4101.斜め左が旧街道の痕跡?

4102.ここを左折
●水浜
水浜地区に入れば、右に宝善院を見ながらその先を左折し、日野川の堤防へ上がっていきます。その途中には道標があり、「左 上方ミち」(出雲街道の異名)と刻まれています。立地から考えて移設されているのかもしれませんが、大山を背後にした絵になる道標です。堤防まで上がれば、河川敷には金刀比羅大神宮の森が見えます。名前負けしている小さな神社ですが、出雲街道沿線では神社は小高い丘にあることが多く、このような立地は珍しい例だと言えます。

4103.水浜の道標

4104.宝善院

4105.金刀比羅大神宮
●八幡の渡し
水浜から堤防道路を400mほど西進すれば、堤防の下に八幡神社があります。案内板に記載されている通り、この付近には「八幡の渡し」があり、出雲街道はここで3度目の日野川渡河を行っていました。現在は八幡神社の300mほど下流側に八幡橋が架けられています。当サイトではここで八幡橋を渡り、左岸を通って米子市街に入っていくルートでご紹介していきますが、出雲街道における日野川の最後の渡河地点としては、現在の国道9号の新日野橋、旧国道の日野橋付近にある「車尾の渡し」も知られています。もちろんどちらが正解というわけではなく、2つの渡し場が使い分けられていたようで、信頼できる資料を見てもどちらのルートのものも存在します。

4106.八幡神社

4107.左折で八幡橋を渡る

4108.日野川はまだまだ清流
>拡大画像 八幡神社の案内板
八幡橋を渡ると、日野川左岸の堤防道路を北西へ進んでいきます。現在の堤防道路はもちろん旧街道時代からの道ではありませんし、周辺も近代的な圃場整備がなされているため、旧街道の道筋は失われていると思われますが、高い堤防がちょっとした展望台の役割を果たしてくれていて、米子平野と日野川、そして後方の大山の眺めが良い道が続きます。

4109.堤防道路を行く

4110.振り向けば日野川と大山
この付近で左に見えるのは福市地区で、台地上には弥生時代から古墳時代にかけての土器等が多数出土し、国指定史跡にもなっている福市遺跡があり、「福市遺跡公園」として整備されています。4112の写真の左に見える大川橋を渡れば、後醍醐天皇ゆかりの安養寺がすぐ近くにあるので、こちらには立ち寄ってみます。

4111.広大な田園の向こうは福市地区

4112.この辺りで堤防を下りる
●安養寺
福市地区の低い丘陵の東端近くにある安養寺は、後醍醐天皇の皇女の瓊子内親王が開かれた寺です。瓊子内親王は後醍醐天皇を追ってここまで来られたものの、後醍醐天皇についていくことは叶わず、この地で亡くなられているという人物で、境内にはその墓があります。御皇室の人物の墓が地方にある珍しい例でもあり、史実かどうかわからない伝承に基づくものがほとんどの出雲街道沿線にある後醍醐天皇の関係史跡の中では、史実に基づく明確な史跡があるという珍しい例でもあります。

4113.瓊子内親王の墓

4114.境内

4115.談碑
>拡大画像 安養寺の案内板
日野川の堤防道路に戻って北上を続けます。安養寺のある丘陵を過ぎれば、西から法勝寺川が近づいてきて、日野川との間に家屋が見られなくなります。この付近では2つの河川が氾濫を繰り返し、流路を変え続け、とても人が居住できる場所ではなかったのだと思われます。一方で、両河川の合流地点近くには米子市水道局の施設や米川頭首工紀功碑があり、日野川および法勝寺川のもたらす水資源を米子平野全体に波及させるための要となる場所であるとも言えます。

4116.法勝寺川との間に水道施設

4117.米川頭首工紀功碑
いよいよ法勝寺川が近づいてきたところで法勝寺川を渡ります。渡った先には戸上山という丘があり、藤内稲荷神社があります。ここで堤防を下り、米川に沿って進んでいきます。

4118.左折で法勝寺川を渡る

4119.藤内稲荷神社
>拡大画像 米川頭首工と藤内さんの案内板
●米川
戸上山の麓から始まる米川は、江戸時代中期に約60年の歳月をかけて整備された人工の河川で、米子平野を南北に貫き、河川らしい河川のない弓浜半島方面(境港市方面)の極めて重要な水源となっています。流量が調整されているので河川敷や堤防はありませんが、「川」と呼ぶにふさわしい水量が豊かに流れています。また、堤防を下りたところにある戸上の集落では、古い家屋の間を米川が貫いており、道路のない左岸側の家に出入りするための橋が多く架けられていたりするなど、独特の雰囲気があります。

4120.米川のスタート地点

4121.人の暮らしとともにある人工河川

4122.左岸に道路はない
戸上の集落を過ぎると、米川の流れと旧街道の道筋は西に向きを変え、南の丘陵に沿うようにして進んでいきます。北は観音寺新町という新興住宅地となっていますが、米川は明らかにそれより高い位置を流れる天井川になっています。平野部において、安定した水量を確実に流すための高低差をつけているというところでしょう。

4123.右は新興住宅地ですが…

4124.米川の方が明らかに高い
米子環状線を名乗る県道300号を横断すれば、その先は野球場や陸上競技場などが集まる東山公園で、ネーミングライツにより「どらやきドラマチックパーク米子」と名づけられています。この名称は、施設命名権を購入した米子市の製菓メーカーがどらやきの生産量日本一であるため、「どらやきのまち米子」としてPRするプロジェクトの一環として名づけたものです。また、どらドラパーク米子市民球場は(ここ5年ほど開いていますが)山陰地方で唯一のプロ野球一軍公式戦が開催される球場でもあります。

4125.県道300号を横断

4126.東山公園駅

4127.米子市民球場

4128.「どらやきのまち」をPR
●車尾の道標
米川踏切で山陰本線の線路を渡れば、まもなく旧山陰道と合流し、ここから松江までは出雲街道と山陰道が重複するようになります。そして交差点の脇にある民家の敷地内にはには古い道標があります。柵の中にあるためじっくりと見ることができず、保存状態もあまり良くないのが惜しまれるところではありますが、道標には非常に多くの地名が刻まれており、車尾が米子の東部にある交通の要衝であったことを強く感じることができます。

4129.車尾の道標
道標のある交差点を左折し、米川橋で米川を渡ると、ごく緩やかな下り坂で堤防を下ります。ここから旧街道の道筋は直線的に米子の市街を目指していきますが、4131の写真の地点で左折してみると、江戸時代の堤防が残る「新土手跡」が見られます。

4130.左折で米川を渡る

4131.ここで左折すると…

4132.新土手跡
>拡大画像 新土手跡の案内板
この辺りはまだ米子の城下町には入っていませんが、現在では車尾から米子までの旧街道沿いには市街が連続しています。米子東高校と博労町駅の間には勝田神社や出雲大社(米子分院)、法勝寺や了春寺など、多くの寺社が集まっています。

4133.勝田神社

4134.出雲大社(米子分院)
>拡大画像 勝田神社の案内板
博労町駅は山陰本線ではなく境線の駅で、駅舎もない小さな駅です。境線は米子から境港までの17.9kmの間に14駅(両端駅を除く)もの駅があるというJRの地方路線らしからぬ路線で、境港市ゆかりの水木しげる先生にちなみ、各駅には「ゲゲゲの鬼太郎」に登場する妖怪の名前が愛称が付けられていて、博労町駅は「コロポックル駅」です。列車は車両の内外に「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが描かれた「鬼太郎列車」が走っています。
博労町駅のすぐ南の鳥取街道踏切を渡れば、すぐに変則的な形状の交差点があり、旧街道は斜め左に進んで米子城下町に入っていきます。博労町という町名からも、大山牛馬市に集う人々などが集まる交通の町が米子城下の東端にあったことが想像できます。現在では跡形もありませんが、博労町には一里塚もありました。

4135.博労町駅

4136.斜め左へ
古い屋敷や蔵が残っている商家がある博労町1丁目交差点で久しぶりの国道181号に出会います。その終点である公会堂前交差点まではここから500m足らずで、津山市の院庄交差点から約100kmに及ぶ国道一本分を歩き通してきたと思うと達成感を感じます。なお、ここから先、文中で単に「国道」と記している場合は、国道9号を指しています。

4137.古く立派な商家がある

4138.交差点から振り返る
出雲街道の道筋は糀町に入り、そのまま一直線に進んでいくのですが、米子市街を貫く加茂川に架かる糀町橋の手前で右折して、加茂川沿いを少し寄道してみることにします。加茂川沿いには多くの地蔵が祀られており、平成28年(2016年)に日本遺産に指定された「地蔵信仰が育んだ日本最大の大山牛馬市」の構成文化財の一つとなっているだけでなく、加茂川に架けられた数多くの小橋、城下町に張り巡らされた小路のネットワークなど、米子の町の個性をよく感じることができる場所です。出雲街道から離れすぎてしまうので、ここでは4142の写真の「善光院橋地蔵」のところで加茂川を渡って「善光院小路」に入り、商店街を通って出雲街道に戻ることにしますが、加茂川沿いをさらに進めばまだ多くの見どころがあり、当サイトでは「だいせんみちを歩こう」(尾高道)の方でご紹介しております。

4139.糀町橋の手前で右折してみよう

4140.小橋が多く

4141.小路が多く

4142.地蔵が多い
>拡大画像 加茂川の橋と地蔵の案内板
>拡大画像 加茂川の橋と地蔵位置図
●米子の商店街
善光寺小路はアーケード商店街の「米子ほんどおり」に接続します。この四日市町、紺屋町の辺りが「山陰の大阪」とも呼ばれる商業都市である米子の中心商店街と言える場所ですが、大半の店がシャッターを下ろしていて、津山のソシオ一番街や銀天街の方がまだ良かったと思えるほどの廃れ方に見えます。しかしながら、各店舗の看板を見ていると、店舗の専門性が高いこと、個人経営らしい個性が輝くデザインなどに気づき、以前は相当賑わっていた商店街であることは十分に想像できます。
このアーケード街はかつてはその先の法勝寺町まで続いていましたが、法勝寺町では平成23年(2011年)にアーケードを撤去し、緑を多用し、実在の住民をモチーフにしたという七福神や「世界一」の米子市の水道水をアピールするピリケンさんが配された空間に大きく生まれ変わっています。結果的に商店街らしい雰囲気自体が薄れていますが、明るく楽しい雰囲気の通りを歩いていると、従来とは少し違ったストーリーでまちづくりを進めていこうという地元の思いが強く感じられます。

4143.米子ほんどおりのアーケード

4144.アーケードを撤去した法勝寺町

4145.ピリケンさんと水道
>拡大画像 開運招き水(米子市の水道水)の案内板
●元町サンロード
リニューアルされた法勝寺町が終わり、右折して出雲街道に戻るところの交差点はかつてこの場所にあった薬屋の名前にちなんで「増屋の角」と呼ばれています。港から続いてくる市街のメインストリートと出雲街道(山陰道)が接続するため、かつては米子市街の要と言える場所でした。ここから道笑町、日野町、茶町と続く旧街道は「元町サンロード」と呼ばれる商店街で、現在はシャッター通りと化してしまっているものの、法勝寺町と同じようにアーケードを撤去して新たなまちづくりが進められつつあるところです。イベントスペースとなっているパティオ広場には「現存する日本最古の客車」である旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道車両が展示され、また、日野町と茶町の境となる交差点には「出雲かいどう 右 上方 左 松江」と大書された新しい道標が設置されるなど、歴史を伝える取り組みも見られます。

4146.元町サンロード(電柱アートは掲示期間終了)

4147.パティオ広場

4148.出雲街道の新設道標
>拡大画像 旧日ノ丸自動車法勝寺鉄道車両の案内板
元町サンロードは市街地の旧街道だけあって、やはり多くの小路が接続しています。特に「瓢箪小路」と呼ばれるパティオ広場から南東への小路は、伯耆町の三部で分岐した新出雲街道の道筋で、ここが(旧)出雲街道との再合流点となっています。近年では市民有志の中から小路をまちづくりに活用しようという発想も生まれ、主な小路にはその名称と由来を紹介した案内板が設置されるとともに、平成30年(2018年)には米子城下町の88の小路を紹介した「米子の小路 八十八」というガイドブックも発売されています。

4149.新出雲街道の瓢箪小路

4150.小路と旧街道の接続
<8-1.伯耆溝口駅→岸本→遠藤BS 8-3.米子駅→陰田→吉佐BS>
  • ●地名、人名等の読み方
    •  安養寺=あんにょうじ
    •  米川=よねかわ
    •  藤内=とうない
    •  弓浜半島=きゅうひんはんとう
    •  博労町=ばくろうまち
    •  勝田神社=かんだじんじゃ
    •  糀町=こうじまち
    •  小路=しょうじ
    •  紺屋町=こうやまち
    •  法勝寺町=ほっしょうじまち
    •  増屋=ますや
    •  道笑町=どうしょうまち
          
  • ●関連ページ       
  • ●参考資料
    •  米子市立山陰歴史館運営委員会「米子のふるさと散歩」
    •  よなごの宝88選実行委員会「市民が選んだよなごの宝八十八」
    •  米子まちなか歩こう会「米子の小路 八十八 〜まち歩きガイドブック〜」
          
  • ●取材日
    •  2015.7.3
    •  2018.2.21/2.23/5.22/11.28
    •  2019.8.20
    •  2020.6.16
    •  2022.4.24
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