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つながる出雲街道を歩こう会 勝間田編(令和2年9月27日)
「出雲街道勝山宿の会」の「歩こう会」イベントは、令和元年(2019年)5月の「第6回大山みちを歩こう会」以来、1年半ぶりの開催となります。真庭地域での「歩こう会」が一段落し、そこに新型コロナウイルスの感染拡大が重なったという状況下ですが、その間にも真庭市内の出雲街道が「つながる出雲街道 〜久世〜勝山〜美甘〜」として国土交通省中国地方整備局の「夢街道ルネサンス」への認定を受けるなど、精力的な活動を続けておられました。
そして今回、新シリーズとしての「歩こう会」はいよいよ真庭地域を飛び出して、本拠地である勝山から約40kmも離れた勝央町での開催となりました。勝央町もこれまで勝間田宿の景観を整え、毎年「街道祭」を開催するなどしてきた町ですが、さらに「出雲街道勝間田宿の会」が組織され、さらに出雲街道を盛り上げていく動きが活発になってきました。姫路から出雲まで、出雲街道全体をご紹介してきた当サイトとしても、市町村の枠を越えて出雲街道を盛り上げようという動きが形になったことはこの上なくうれしいことです。
当日は勝央町のノースヴィレッジに集合、まずは昼食の弁当をいただいてからの出発となります。新型コロナウイルス感染拡大防止のための工夫もなされ、参加者チェックの際には非接触型体温計による検温が行われ、マスクを忘れた人向けにマスクが用意されるだけでなく、昼食も向かい合わせの机の配置ではなく、会議室型の机の配置にされていました。一般参加者数が30人を下回り、前回までの半数近くまで減少していましたが、市民レベルのこの規模のイベントでは十分な感染拡大防止対策と言えるでしょう。

8601.ノースヴィレッジに集合
 
8602.感染拡大防止対策をとっての昼食
まずはバスで津山市の大崎バス停まで移動し、大型バスでは入りにくい福力荒神社まで徒歩で移動して「歩こう会」がスタートします。

8603.バスで大崎へ
 
8604.まずは福力荒神社へ
福力荒神社はマムシ除けおよび安産祈願の神社として知られ、祭のときには露店も出て多くの参詣者が詰め掛ける神社です。それだけなら少し調べれば誰でもアクセスできる情報ですが、この日は勝央町の文化財保護委員の方々が同行してガイドをしてくださっているため、マムシ除けと安産に関する歴史のエピソードの詳しい解説がありました。他にもこの付近の地名ともなっている福力が広かった新田村からの分村に尽力したという人名に由来するものであることなど、ただ歩いているだけでは知ることのできない知識を得られました。

8605.福力荒神社でのガイド
出雲街道の道筋に戻ると、勝間田へ向けて歩き始める前に少しだけ津山方面に向けて寄道をします。なお、8607の写真は国分寺方面への道が分岐する地点ですが、この場所を令和2年(2020年)1月に歩いた際に発見した一里塚の新しい標柱が撤去されていました。史料や絵図から推定される一里塚の位置と違っているため、撤去されることになったのでしょう。

8606.津山方面へ少し戻る
 
8607.国分寺方面の道との分岐点
津山方面に少し後戻りした理由は足腰の痛みに霊験のあるという光伯地蔵に立ち寄るためで、「出雲街道を歩こう会」が開催されることを知った地元が「街道歩きの会をするならぜひ立ち寄ってください」と勧めてくださったそうです。普段は閉まっているお堂の扉が開けられており、草鞋が供えられた地蔵堂で、みんなで道中の無事をお祈りしてから折り返していきます。

8608.光伯地蔵堂へ立ち寄り

8609.光伯地蔵
 
8610.草鞋が供えられている
美作大崎駅付近で長く続く旧道は古い家屋こそあまり見られないものの、沿道には多くの石造物が残されており、旧街道沿いで定番の供養塔のほか、四国八十八カ所巡りを模した勝南霊場の札所など盛りだくさんです。

8611.旧街道らしく多くの史跡
 
8612.勝南霊場の札所
旧道を抜けて国道に出る地点では、この付近では源平合戦の時代に源氏方と平氏方の合戦があり、北の丘には源義経ゆかりの史跡があることのガイドがありました。旧街道歩きと言えば、国策として街道整備が進められ、現在も現物や記録が残る江戸時代以降の史跡を見ることが中心になりますが、これまで知らなかったより古い時代の歴史を知ることで、出雲街道が古代から続く山陰への道筋であるということの認識を深められました。

8613.源平合戦の歴史のガイドも
津山市と勝央町の境では出雲街道の道筋は概ね国道179号に沿っているため、時に国道を歩くことにはなりますが、旧道のあるところでは旧道を選びながら歩いていきます。これまで見逃していた供養塔も見られ、地元の方々のガイドがあるとやはり一人歩きとは違います。

8614.念仏供養塔
 
8615.彼岸花も鮮やかな彩りを添える
津山市の最後、池ヶ原地区の国道の南に残る短い旧道沿いには供養塔がありますが、8616の写真右側には「戸川先生之墓」が立っています。本日のガイドをされている方はこの「戸川先生」が誰なのかを文献や聞き取りで研究され、備前の戦国大名で豊臣政権下の五大老にまで上り詰めた宇喜多氏を支えた家臣の戸川氏のものであると結論付けられていました。地元の文化財保護委員の皆様方がこういった地域の小さな史跡を地道に研究されているおかげで、街道歩きの楽しみも深まっていくわけで、本当に感謝しなければならないと思います。

8616.供養塔と戸川先生之墓

8617.国道に戻って勝央町に入る
 
勝央町に入ると平安時代からの歴史を誇る高取八幡神社があります。この日は予定が少し遅れがちだったので、中までは入りませんでしたが、その中でも地元の方がさらなるガイドをリクエストされる場面もありました。曖昧な記憶しか残っていないのでそれらをご紹介することができないのは申し訳ありませんが、いずれにしても地域の歴史を伝えたいという地元の気持ちがよく伝わってきました。

8618.高取八幡神社でのガイド
今度は黒坂地区の旧道に入ります。道沿いに目に見える史跡は少ないですが、西勝間田駅の南側には旧街道時代の休憩施設である立場があった場所で、また、黒坂公会堂の付近には高取村役場があったことなどが語られます。

8619.この付近は立場跡
 
8620.この付近は高取村役場跡
大峯役小角供養塔を見て国道に戻り、しばらく歩けば今回の道中で唯一の一里塚である黒坂五厘田の一里塚跡を通過します。

8621.大峯役小角供養塔
 
8622.黒坂五厘田の一里塚跡
一里塚を過ぎた先にある押田バス停のところには泣清水があります。同じ吉井川水系とはいえ、肘川から広戸川を経て吉井川に向かう流れと滝川から吉野川を経て吉井川に向かう流れの分水嶺となっている地点で、今は使用されていないとは言え湧き水の古井戸が残されています。そして、「ぜひ覚えて帰ってほしい」とガイドの方が強調されていたのが、その脇にある六面石幢で、江戸時代に疫病が流行し、地域に深刻な被害があったときに立てられ、しばらく後に地域が活気を取り戻したという歴史を持つそうです。新型コロナウイルスの感染拡大が続き、経済にも深刻な影響が出ている今、参加者の皆様も心を込めて手を合わせていました。

8623.泣清水の六面石幢

8624.湧き水もある分水嶺
 
>拡大画像 泣清水の碑
大日如来などを見ながら緩やかな下り坂になっている国道を軽快に下っていけば、いよいよ勝間田宿を含む勝間田の旧道へ入っていきます。

8625.大日如来
 
8626.勝間田の旧道へ
勝間田大橋で滝川を渡っていよいよ勝間田宿に入っていく手前、勝間田神社は「勝田郡勝央町勝間田」の神社として必勝祈願に訪れる人も多い神社です。近年では勝央町が「勝ブランド」として町のブランド化の取り組みを推進していることもあって知名度も高まり、その人気はますます上昇中です。一方、神社の向かい側には「お礼場」の跡があります。勝間田宿では旅人をここまで見送っていたという場所だそうです。8628の写真のように近年の勝間田宿では鹿の角に木製プレートを吊るして屋号等を表示する取り組みを進めていて、昨年度(2019年度)末には全30カ所に設置を完了しています。

8627.勝田郡勝央町勝間田の勝間田神社

8628.お礼場の跡
 
8629.滝川を渡る
>拡大画像 勝間田神社の案内板
滝川を渡ると馬繋ぎ場や榎の古木を見て堤防を下り、次いで恵比須橋を渡って勝間田宿に入ります。これまで勝間田宿は滝川まで続いていたと認識していたのですが、正確にはこの恵比須橋までだったことをこの日初めて知りました。小さな橋とは言え、かつての親柱が脇に保存されていたりして、歴史のある橋だったことがわかります。本当に今回の「歩こう会」はこれまで知らなかったことだらけで、地元の文化財保護委員の方々のおかげで勉強になることばかりです。

8630.恵比須橋を渡って勝間田宿へ
勝間田宿に入ると、少し南に寄道して勝間田宿の本陣のうち当時の建物が現存する下山本陣跡の茶室や地蔵堂、祖師堂、真福寺などに立ち寄ります。当たり前のことではありますが、宿場町に入れば歴史を語る史跡群が集中していて、一つ一つご紹介はしませんが、それぞれのガイドがあります。

8631.下山本陣跡の茶室

8632.祖師堂と題目塔
 
8633.真福寺
>拡大画像 下山本陣の案内板
勝間田を象徴する旧勝田郡役所の前で休憩し、「歩こう会」恒例の甘酒接待です。毎回のことになっていますが、勝山から遠く離れた勝間田まで甘酒を持ってきてくださっており、本当にそのご協力には頭が下がります。
この勝田郡役所跡は明治時代の洋館風の建物が目立ちますが、その裏には江戸時代の木村脇本陣の蔵がそのまま残されています。一方、向かい側は「勝央こころざしシェアスペース」は、伊能忠敬も宿泊したという家の敷地内に位置しており、古民家をリフォームし、勝間田周辺の街道絵図(古い絵図のコピーをベースに作成したもの)も展示した空間は、先述した「勝ブランド」など、新しい発想で勝央町の未来を創造するための取り組みを推進している若い世代の活動拠点となっています。

8634.旧勝田郡役所で恒例の甘酒接待

8635.裏手に残る脇本陣時代からの蔵

8636.勝央こころざしシェアスペース
>拡大画像 伊能忠敬測量隊宿泊地の案内板
休憩を終えると、まだまだ続く勝間田宿の史跡についてガイドを受けながら東へ歩き続けます。水路を泳ぐ鯉には参加者の小学生も喜んでおり、石畳風の舗装で景観を整えていることも含め、単に史跡が多いというだけでなく、楽しく街歩きができる空間になっているのが勝間田宿の特徴です。水路に葉っぱを流して遊んでいた子どもたちと歩いていたところ、ある地点で水路が暗渠に消えていく瞬間を一緒に見られ、宿場町の水路の形を意識することができたのも、子どもたちと視点を共にしていたからこその発見でした。

8637.水路に泳ぐ鯉
 
8638.石畳風の舗装の街並みが続く
>拡大画像 勝間田宿の案内板
かつての屋号のままで営業する割烹旅館のところで勝間田宿は終わりますが、現在ではその先もしばらく家屋が連続しています。台石が道標となっている地蔵が民家の敷地内に残されていることなど、地元ならではの細かなガイドも続きます。

8639.岡出屋は今も岡出屋
 
8640.民家の中に道標地蔵
岡地区の広大な田園地帯に入ると、その中に薬師如来と文殊菩薩の2体の仏像があります。圃場整備のため、本来の設置位置からは少し南へ移動しているそうですが、この日のガイドをしてくださっている勝央町の文化財保護委員長はこの石仏と史料等を研究して勝間田にかつて温泉が湧いていたことを立証し、そこに後醍醐天皇が入浴された可能性もあるということを発表されました。ここでは研究をしたその人によるガイドがあっただけでなく、地元の岡地区の方々が集まり、温泉を模したパフォーマンスとお茶の配布によってもてなされました。先述の泣清水での六面石幢といい、最近の話題と地元での最新の研究成果が見事に織り込まれたガイドとおもてなしは本当に感心させられました。

8641.湯大明神において

8642.温泉風のパフォーマンスも

8643.薬師如来と文殊菩薩
ラストコースは低い丘陵上にある岡地区を進みます。この付近もまた石仏等が非常によく目立っており、やはり四国八十八カ所巡りを模した勝間田郷霊場の札所も多く残されています。

8644.勝間田郷霊場の札所
 
8645.岡地区には石仏等が多く残る
岡神社の北へ回り込み、かつて轟池と呼ばれる池があった低地に下っていきます。そこにあるのは後醍醐天皇がそのお姿を映されたという姿見橋の跡で、現在は石碑と案内板が立っています。勝央町内で最もよく知られれている後醍醐天皇伝説の地で、地元での言い伝えがガイドされますが、ここでは昭和47年(1972年)まで存在していた池に架かっていた橋の写真が披露されました。

8646.姿見橋跡の碑

8647.かつての橋の写真が登場
>拡大画像 姿見橋の案内板
姿見橋跡の碑から丘陵地帯にあるノースヴィレッジへまた上っていきます。配布資料には寄道としてみちしるべ地蔵が記載されていましたが、時間切れのため立ち寄りは行わず、現在の道路の新姿見橋で中国自動車道を乗り越えてノースヴィレッジへ戻りました。

8648.寄道は省略して現在の道路で戻る
 
8649.新姿見橋を渡ってノースヴィレッジへ
新シリーズとして始まった久しぶりの「歩こう会」。何と言ってもまずは会の高齢化が進みながらも新たな企画に挑んでくれた「出雲街道勝山宿の会」の皆様、そしてそれを受け入れて「出雲街道勝間田宿の会」を組織して今回の「歩こう会」を主催してくれた勝間田の皆様に感謝しなければなりません。さらに、津山市内ではイベントを聞きつけて光伯地蔵堂を開けてくださったこと、勝間田宿では休憩場所として「勝央こころざしシェアスペース」を開放してくださったこと、岡地区では湯大明神でのおもてなしをしてくださったこと、関係された方々によるご協力も従来以上で、本当にありがとうございました。

冒頭でご紹介したとおり、真庭市内の出雲街道は「つながる出雲街道 〜久世〜勝山〜美甘〜」として「夢街道ルネサンス」の認定を受けましたが、「つながる」という言葉は国土交通省側の発案によって付いた言葉だそうです。これまでの「夢街道ルネサンス」は一つの町の取り組みによって認定されたものがほとんどでしたが、これからは一つの町を越えて地域全体で歴史の道を生かした取り組みを進めていきたいという思いが「つながる」という言葉に含まれているのだと思います。この日も勝山側、勝間田側の双方から「つながる」というキーワードが出てきました。今回の「歩こう会」開催で生まれた「つながり」はきっとこれからの出雲街道沿線地域にとって有意義な力になることでしょう。コロナ禍の影響で参加者こそ少なかったものの、1回のイベントを無事に完了させただけではない、まさに「2勝」分の価値があるイベントだったと思いました。

私自身も今回は勝央町の史跡についてよく知ることができ、まず、知識の面でとても勉強になりました。遠くないうちに再訪して「出雲街道の道のり」も書き換えたいと思います。もちろん知識だけではなく、市民レベルで町の枠を越えた「歩こう会」を実現した方々の精神からも学ばなければなりません。私はこのようなイベントを自ら開催できる立場にありませんが、「地域の歴史を活かした取り組みをしてみたい」と考えている方々にとって何かヒントになるような情報を提供していけるように、意識したサイト運営をしていきたいとの思いを新たにしました。

例年、春と秋の年2回の開催だった「歩こう会」ですが、今年は新型コロナウイルス感染拡大の影響で今回の勝間田編を延期した関係で、次回はこの秋にもう一度、11月8日(日)に坪井・久米編が開催されます。ぜひ「つながる出雲街道」を参加者レベルでもさらに盛り上げていきましょう。
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