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つながる出雲街道を歩こう会 坪井・久米編(令和2年11月8日)
「出雲街道勝山宿の会」の「歩こう会」イベントは、令和2年より「つながる出雲街道を歩こう会」として真庭地域を飛び出して、市街へも広がりを見せています。9月に開催された勝間田編に引き続き、11月は津山市西部の旧久米町エリアでの開催です。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で勝間田編が延期になっていたとは言え、立て続けの開催には「出雲街道勝山宿の会」および各地元団体の心意気を感じます。もちろん当サイトとしても、意気に感じる部分は少なからずあります。
当日は久米ふれあい学習館に集合、Zガンダムで知られる道の駅久米の里のすぐ南の旧街道沿いです。ここからバスでの出発となりますが、出発予定時刻になってもバスが現れず、初めから段取りの悪いスタートになりました。しかしながら、待っている間にも他の参加者と一緒に会話を楽しみながら道の駅のトイレに行ったり、80歳を越える会のメンバーから「出雲街道を歩こう」を読んだ感想をお聞かせいただいたりと、それなりに有意義な時間を過ごすことはできました。予定より30分近く遅れてバスが到着、会長は連絡に忙しかったため、始めの挨拶はバス車内となりました。そして国道181号で旧久米町でも西端に近い岩屋城跡の近くまで移動し、ここから歩こう会がスタートします。

8701.集合場所は久米ふれあい学習館
 
8702.岩屋城跡の麓からスタート
本編でも触れている通り、岩屋城は美作国でも屈指の規模を誇り、戦国時代には激しい争奪戦が繰り広げられた城です。現在では地元で「岩屋城を守る会」が組織され、県指定史跡から国指定史跡への昇格を目指して活発な保存活用の活動がなされています。当然ながら城跡にまで立ち寄ることはできませんが、国道と旧道の間にある岩屋城夢の広場において「岩屋城を守る会」の会長から城跡と城下についての説明を受けます。私は岩屋城跡には出雲街道歩きを始める前に登ったことがあるのですが、周囲の山々には岩屋城を巡る争いの中で築かれた陣城群があり、それらが全長8kmにわたる土塁(現存)で結ばれていることなどは今回初めて知ったことでした。前回の勝間田編でもそうでしたが、地元で史跡の保存活用の第一線で活躍されている方のガイドを受けられるのは本当に貴重なことです。

8703.岩屋城夢の広場へ

8704.「岩屋城を守る会」会長によるガイド
 
8705.岩屋城下の旧街道
岩屋城下の旧街道を抜けると、しばらく国道を歩き、国道を横断して旧街道は南に移ります。そのすぐ先にあるのが津山元標四里の里程標です。明治7年(1875年)に設置されたこの里程標は津山以西の出雲街道では多く残っていて、今回の歩こう会のコースでも2基が見られます。一方、江戸時代の一里塚の跡も今後2カ所で見ることになりますが、基準は津山城下の近接した地点(江戸時代の一里塚は京橋、明治時代の里程標は大橋西詰)であるにも関わらず、旧久米町ではもう既に両者の位置にかなりズレが出ているのが興味深いところです。

8706.津山元標四里里程標
旧街道は久米川に沿って続きますが、8708の写真の地点では旧街道の道筋は直進のところ、右折して姫新線の立野踏切を渡り、昼食休憩場所の大井西ふれあい学習館の方へ進みます。

8707.久米川沿いの旧街道
 
8708.今回はここで右折
大井西ふれあい学習館で昼食の休憩となります。新型コロナウイルスの影響なのか、部屋は開けられておらず、元は小学校だった場所だけあって屋外にもスペースは十分にあり、小学校時代の遠足の昼食のような雰囲気になりました。特に地域の素材を使用したような弁当ではありませんでしたが、ボリューム満点で個々のメニューも美味しく、参加者にも好評でした。一方、ここには大井西地区の出雲街道の史跡の案内図が設置されていて、旧街道から少し外れているのでこれまでその存在に気づいていませんでしたが、写真付きで地区の史跡を網羅した地図はすばらしい仕上がりで、多くの参加者がじっくりと見ていました。
また、昼食を食べている間にも地元の方とお話をすることができ、南側の山が戦前に黄銅鉱を産出した「坪井鉱山」であり、この大井西ふれあい学習館の辺りには選鉱場があって姫新線によって鉱石が各地へ運ばれていたという話をお伺いしました。

8709.大井西ふれあい学習館で昼食
>拡大画像 大井西地区 出雲街道の史跡と文化財の案内板
大井西ふれあい学習館を出ると旧街道に戻るのかと思いきや、そのまましばらく旧街道のやや南を東へ進んでいきます。大井西ふれあい学習館のすぐ東には貞清四郎左衛門という長者の屋敷跡があり、国道を横断した直後の田畑の中にはその墓である五輪塔が見られます。この貞清四郎左衛門は戦国時代の人物だそうで、激しい争奪戦が繰り広げられた岩屋城のすぐ側の土地の有力者の存在感を感じさせます。そのまま田園風景の中を東へ進み、鶴坂の途中で旧街道の道筋に復帰します。

8710.長者屋敷の井戸跡
 
8711.貞清五輪の墓

8712.田園地帯を行く
 
8713.旧街道の鶴坂へ
鶴坂を上り詰める直前の西の茶屋跡で記念撮影を行います。鶴坂は「峠」というほどの坂道ではありませんが、それでも旧街道時代には頂上付近に3軒の茶屋がありました。現在の国道や姫新線の駅からは離れていますが、この付近には昭和の大合併前に存在した大井西村の役場があったそうで、意外にもこのような場所が地域の中でちょっとした拠点となっていたという歴史を持っています。

8714.西の茶屋跡
鶴坂を上り詰めると、道が小さな三角形になっている場所があり、そこでさらなるガイドがあります。本来は北西から南東への方向の道が旧街道なのですが、中国自動車道が整備されたことによって分断され、その三角形の一辺が昔の道で、道沿いに立つ家は現在でも旧街道の道に沿った塀を持っています。また、この鶴坂には戦国時代の鶴之丞という侍が亀という妹の仇討ちに来て返り討ちにあったという悲話が残されており、「久世を夜出て目木乢越えて坪井鶴坂歌で(討たで)越す」と旅人たちに詠われたエピソードも紹介されました。地元の人々がその鶴之丞と亀を憐れんで祀ったのが鶴亀神社の小社です。

8715.ここが鶴坂の歴史の要

8716.昔の道筋についてのガイド
 
8717.鶴亀神社から中国道を越える
中国自動車道をオーバークロスして左折、中国自動車道の向こうに立ち寄りを割愛した後醍醐天皇ゆかりの鶴坂神社の鳥居を見ながら旧街道の道筋に戻り、今度は鶴坂の下り道にかかります。下りきる手前の墓地には江戸時代の石造物もたくさんありますが、今回教えていただいたのは「飾磨津斎七塚」という力士塚で、亀の上に墓石が乗るという形状も面白く、戒名も「顕誉院大力酒無量居士」となっていて、大酒飲みの豪快な力士であったことがはっきり想像できるのが面白いところです。

8718.鶴坂を下る
 
8719.飾磨津斎七塚
国道を横断して坪井宿に入ります。坪井宿の道は現在では広くなっていますが、旧街道時代には水路によって分けられた2本の道で、北の道が旧街道、南の道が里道でした。路線バスを通すために道を拡幅する必要があり、大正15年(1925年)に水路が埋め立てられたそうで、この日の配布資料には水路沿いに常夜燈が立ち、柳の木が植えられているという写真も添えられていました。また、本陣遺構が残されていないので今まで気づかなかったのですが、参勤交代で松江藩の本陣となっていた場所、さらには坪井周辺は森家改易後は津山藩の領地ではなく、三河国の挙母藩の飛び地だったのですが、その陣屋跡の場所についてもガイドがあるなど、この日のコースでの唯一の宿場町だけに、かなり詳細なガイドがありました。

8720.坪井宿のガイド

8721.挙母藩の陣屋跡
 
8722.松江藩の本陣跡
下愛宕様の小社のところで坪井宿は終わりますが、その先にも立派な大庄屋の家、坪井の一里塚の跡と見どころは連続します。ガイドが詳しいだけに、この付近では先頭集団とじっくりとガイドを聞く人たちとの間でかなり大きな差が開いてしまっていたので、大渡橋のところで先頭集団に待っていただくようにします。「出雲街道勝山宿の会」メンバーの高齢化により、一緒に歩いてサポートができる人が少なくなっていることについては、参加者の大半を占めるリピーターもよくわかっているので、こういったことについては参加者の皆様も協力的になっています。

8723.下愛宕様
 
8724.大庄屋の屋敷

8725.坪井一里塚跡
 
8726.大渡橋でしばし待機
大渡橋を渡るとしばらくは国道を歩き、坪井駅の東側でまた旧道に入ります。国道の横断回数が非常に多いコースですが、この旧道はかなり長く続きます。

8727.国道を歩く
 
8728.穏やかな旧道
旧道沿いにあるのは「三ヶ村の界(栗)」という標柱で、かつての中北上村、中北下村、南方中村という3つの村の境になっていた場所に、栗の木を植えて境界の目印としていたものです。津山市の旧久米町域はどこが中心的な町なのかもあまりはっきりしておらず、地形的にも同じような景色が続くような場所というだけでなく、かつての村の名前もわかりづらいという地域だけに、このような史跡は語り継いでいきたいものです。私も旧久米町の各村については「似たもの同士」というような認識しかできていないのですが、地元のガイドの方はすらすらと村名を紹介されており、自治体の単位でそれぞれの歴史を刻んでいたことを感じさせます。

8729.三ヶ村の界
旧道を東へ進み続けると、この日2つ目の明治の里程標、続いて二ツ柳跡と史跡が続き、そこでもガイドがあります。旧久米町エリアでは標柱があっても案内板がない史跡が多いので、ガイドがあると非常にありがたいです。

8730.津山元標三里里程標

8731.二ツ柳跡
久米川を渡って千代地区に入っていくところでは、現在の国道と比べて旧街道は複雑な道順になっています。大人数のウォーキングイベントのため、国道横断の回数を減らすためか、千代地区の旧道は割愛されましたが、それでも旧街道に面した古い家屋が国道に対して斜め向きに建っていることなどは十分に見て取れます。

8732.久米川を渡る
 
8733.旧街道に面した古民家
津山市久米支所の駐車場において、恒例の甘酒休憩です。ここまでで遅れは取り戻せたので、ゆっくりと時間が取られます。西には岩屋城跡も見え、これまでの道のりを振り返りながら、参加者の皆様も地元ガイドの方に聞き逃したガイドを再度聞いたりする光景も見られました。ガイドをされている方々も一度したような説明をまたうれしそうに話されていたのが印象的でした。

8734.休憩中にも地域の歴史語り
久米支所を出るとしばらくは国道歩きとなります。途中の弘法大師碑はこれまで存在を知りながらも意味を理解できていなかった史跡でした。これは大正時代に当時の久米村、倭文村、大井東村で弘法大師を信仰する人々がお金を出し合って建立したもので、旧久米町エリアにおける隣村同士の協力関係を物語っています。そこからも国道歩きが続きますが、現在は通り抜けできない旧街道はその少し南寄りを通っていたそうで、参加者同士でその道筋を想像したりしながら歩いていきます。

8735.弘法大師碑

8736.南の旧街道に思いを馳せながら

8737.伐木供養塔と一畑薬師常夜燈
またも国道を横断して茶屋の集落に入っていくと、そこにあるのは茶屋の一里塚跡です。樹齢360年以上という榎の木が近年まで健在でしたが、枯死したことにより、倒れると周辺の家に危険だということで、伐採されてしまいました。しかし、そこに残るのは切り株だけではありません。切り株の脇の木は枯死してしまった榎の根から新たな命が生まれ育ってきたもので、代替わりしながらも江戸時代以来の一里塚を守り続けています。私を含むこの日の参加者が生きているうちとはいかないかもしれませんが、いずれは先代の樹のような姿を復活させてくれることでしょう。

8738.茶屋の一里塚

8739.金毘羅常夜燈
茶屋の集落を過ぎると久米川を渡り、この日7回目の国道横断をして、最後にはやはりかつての村である宮尾村と久米上村の境界の石柱を見て、久米ふれあい学習館に帰り着きます。

8740.また久米川と国道を渡る
 
8741.村界の石柱
新シリーズ2回目の「歩こう会」はいかにも出雲街道らしい田園風景が続く津山市旧久米町域での開催でした。前回の勝間田編にも劣らず地元のガイドが充実していて、配布された資料も今までより厚みが増していました。本当に丁寧なガイドを受けることができ、何度もこの地を訪れている私でも勉強になることがたくさんありました。

もちろんそれだけではありません。岩屋城のこと、鶴坂のこと、坪井宿のこと、それぞれ地元のガイドはまだまだ語り尽くせていないような感じを受けました。津山と久世・勝山に挟まれ、地味で知名度も低いような地域だからこそ、あまり語られていない歴史がたくさんあることを感じさせられました。はっきりと観光名所になるような史跡に乏しい地域の歴史、それを語り継ぎたい地元の方々の思いをつなぐのが「つながる出雲街道」の精神だと言えるでしょう。

「出雲街道勝山宿の会」の高齢化が進んでいるという一文はこれまで何度も記してきて、初めてそれを文章にしてからも数年の歳月が過ぎました。冒頭のバス車内では会長が「もうそろそろ解散」という検討もされているという少しショックな言葉もありましたが、しばらくは活動を続けることになったそうで、まだまだ決定とは言えませんが、美作市においても「つながる出雲街道を歩こう会」を開催したいと考えておられるそうです。真庭地域にとどまらず、美作国全体においてこのようなイベントが開催されることは、「次世代へもつながる」出雲街道になるための重要な一歩と確信しています。私もしっかりと「つながる出雲街道」を文章として記録し続けていきたいものです。
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