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つながる出雲街道を歩こう会 大崎〜津山(令和4年10月23日)
令和2年(2020年)に始まった「つながる出雲街道を歩こう会」では美作市、勝央町および津山市の出雲街道を歩き、今回が最終回となります。真庭地域の「出雲街道を歩こう会」を含めた全13回を合わせれば、岡山県内の出雲街道を完歩したことになります。今回は最終回を飾るにふさわしく、美作国の中心地である津山市、重要伝統的建造物群保存地区の城東地区も含むコースを歩き、大半のコースを「津山観光ボランティアガイドの会」のご案内を受けて歩きます。

※なお、本文中では「出雲街道勝間田宿の会」「出雲街道勝山宿の会」は、それぞれ「勝間田宿の会」「勝山宿の会」と記載させていただきます。
当日は津山市役所の駐車場に集合、チェックを済ませて資料をもらった人から順にバスに乗車していきます。最終回であること、コースに見どころが多いこと、コロナ禍が落ち着きつつあること、天候に恵まれたことといった要因もあり、参加者はコロナ後では初めて60人を超えていました。バスの中で「勝間田宿の会」「勝山宿の会」の代表のあいさつ、コースの説明を受けながら大崎バス停へ向かいます。

9001.集合場所は津山市役所駐車場
 
9002.バスで大崎へ
大崎に到着すると、2年前に詳しくガイドを受けた福力荒神社には立ち寄らず、早速津山を目指して歩き始めます。光伯地蔵や夜泣き地蔵の前では足を止めてガイドを受けます。

9003.光伯地蔵で道中の無事を祈願
 
9004.夜泣き地蔵
広戸川を渡っても旧道は長く続き、後半が市街地となる今回のコースでは田園風景の中を歩く唯一の場所です。いったん国道に合流する場所には芭蕉句碑があります。

9005.田舎道を歩くのはこの付近だけ
 
9006.芭蕉句碑
国道を歩くのはわずかな距離で、次は河辺の旧道に入ります。最初は史跡も全く見られませんが、これは旧街道筋を姫新線の線路に譲った影響です。河辺上之町の集落に入っていく直前に題目塔があり、旧街道の道筋に戻ったことを感じさせます。

9007.河辺の旧道へ
 
9008.題目塔
題目塔の前を過ぎたところで、河辺のガイドを担当してくださる方が待っておられました。河辺在住で出雲街道の絵図を所蔵され、長年にわたって美作国の歴史の研究やガイドを続けておられる方です。

9009.河辺地区はガイド交代
 
9010.東坂を上る
東坂を上った先に東の桝形があります。旧街道において「桝形」と言えば主として宿場の出入口で道を曲げた構造を指しますが、城下町を外れた郊外の村落の直線路においてこのような石垣を設けたものは大変珍しく、かつては左右に藪が設けられていて城壁のような姿だったそうです。津山盆地の外縁部における防御を意識して江戸時代に「造られた」集落というのがこれから入っていく河辺上之町のポイントです。

9011.東の桝形
河辺上之町は東の桝形から西の桝形まで約270m。東の桝形から60〜70mほど進んだところには道標が残されていて、南北方向の道が接続していますが、十字路ではなく少しずらしてあります。

9012.南への道
 
9013.道標が残る
河辺上之町の中央部には立派な長屋門が残されています。中は現代的な住宅に変わっていますが、ここはかつての庄屋屋敷でした。藪に囲われ、桝形も設けられた丘陵上の集落、中央には兵を集められるような大きな屋敷もあり、有事に砦とすることが明らかに意識されています。また、この庄屋屋敷は殿様の休憩場所としても使用され、宿場の本陣に準ずるような機能も有していたそうです。

9014.庄屋屋敷の長屋門が残る
約270m先には西の桝形がやはり現存しており、この東西の桝形の間が江戸時代に造られた河辺上之町の範囲です。それ以前の河辺村は平地(現在の国道53号沿い)にあったそうですが、美作国では江戸時代初期に森藩の新田開発に伴う「山上がり」が強制的に行われており、「しとど原」と呼ばれていた現在地に集落が移転したという歴史があります。河辺の「山上がり」は美作国内でも規模が大きいものでした。

9015.西の桝形
今回の昼食休憩は西桝形のところにある河辺公会堂で、後述する津山城東地区の古民家を再生したお店の弁当をいただきます。公会堂の部屋には先述したガイドの方の所有するものとはまた別の街道絵図が貼られていて、今回のコースの前半部分(大崎〜兼田橋)の様子がわかるようにしてくださっていました。この絵図は江戸時代末期のものと思われますが、今回のコースを文章でご案内すると、大崎には村落があって現在の県道にあたるような道が分岐、広戸川を渡ると一里塚があって家は減少、丘陵が迫ってくると道はカーブしており、河辺上之町では桝形の間に家が大崎よりも密に並んでいて、現在の国道53号沿いには何もなく、既に架橋されている兼田橋に至るというものでした。

9016.昼食
 
9017.絵図を展示
休憩を終えると河辺上之町を出て、西坂を下ります。途中で国道179号を横断、姫新線の線路は国道の跨線橋で渡り、旧街道とは少し違う形で進みます。先ほど河辺公会堂で見た絵図では、河辺上之町を出ると兼田橋までほとんど何も描かれていませんでしたが、国道53号に至るまでの間はそれなりに古い家並みが続きます。そして、地蔵堂に祀られている地蔵は子宝祈願の地蔵として信仰を集めており、子宝を願う人々によって中の地蔵が増えていったことなどがガイドされます。

9018.階段を下って旧街道へ復帰
 
9019.小さな地元の歴史が語られる
河辺の国道53号沿いは現在では郊外型の店舗が立ち並び、その裏道となっている旧街道も含めて自動車の交通量がとても多くなります。この付近は現在の繁栄とは裏腹に目立つ史跡は全くありませんが、旧街道の時代からの水路が現在も残されていることなど、地元ガイドからは「絵図に何も描かれていない場所」のガイドがあります。絵図に描かれていたのと同様のカーブを過ぎると兼田橋に到着し、ここでガイドは交代、3グループに分かれます。観光地化していない郊外部は河辺在住の大ベテランが担当、市街部はガイドできる人も多いので小グループ化してきめ細かいガイドをしようという意図がわかります。

9020.国道を横断
 
9021.旧街道沿いの水路は今も

9022.兼田橋東のカーブは昔のまま
 
9023.兼田橋でグループ分け
兼田橋を渡ったところには道標があります。はるか遠くの「信州善光寺」が案内されていたり、情報量の多い立派な道標で、別のグループは時間をかけてじっくりとガイドをされていましたが、私のいたグループは簡単な解説だけで先へ進んでいきます。

9024.兼田橋西詰の道標
兼田橋からは比較的古くからの街並みが続くようになりますが、まだ津山城下町には入っていません。足を止めてガイドを受けるような場所はまだ少ないですが、その代わりに津山以外の出雲街道の話、津山出身または在住の参加者による津山の町の変遷の話、付近にあるイナバ化粧品店(B'zの稲葉浩志さんの生家)の話などに花が咲きます。私のいたグループのガイドの方は参加者とのコミュニケーションを重視するスタンスなのでしょう。

9025.まだ城下町ではありません
 
9026.歩きながらのトークが楽しい
旧道沿いに石仏や供養塔が並ぶ交差点は因幡道の分岐点です。かつて立っていた元禄の道標はありませんが、代わりに新設の道標が建てられ、大きさやデザインは元々の道標に似せて造られています。この場所が鳥取方面への道の分岐点であったことは知らない参加者も多そうでした。

9027.玉林の石仏群

9028.再建の元禄道標
玉林の因幡道分岐点からは古い建造物が増えてきます。中でも代表的なのが築100年を迎えた「ポート アート&デザイン津山」で、大正時代に妹尾銀行林田支店として建設され、中国銀行津山東支店、津山洋学資料館として使用されてきた名建築です。この日は外回りの工事中でしたが、中に入ることができました。

9029.ポート アート&デザイン津山

9030.高い天井には凝った細工

9031.本館ラウンジ
荒神曲(の少し手前)からはいよいよ津山の城下町エリアに入ります。ここまでも古い建造物が多く残されてはいましたが、ここからは重要伝統的建造物群保存地区に入り、景観が変わります。前日に古書店で昭和63年(1988年)に津山市が策定した「城下町津山 出雲街道復元計画」を入手していたところだったので、ここからは平成の約30年間を経て津山城東の街並みがどう変わったかも個人的な注目ポイントになります。

9032.荒神曲を曲がる
 
9033.重要伝統的建造物群保存地区に入る
まずは東新町の城東むかし町家に立ち寄ります。ここでは時間を取って見学となりましたが、中に入って蔵や茶室や庭園などを見ると、津山でも屈指の商家であったことが実感できます。なお、「出雲街道復元計画」を見ると、この家は昭和末期には空き家となっており、写真を見ても一部が朽ちかけているような状態でした。現在、美しい状態に整備され、観光スポットとして一般開放されているのはこの「出雲街道復元計画」通りです。

9034.城東むかし町家に立ち寄り

9035.中をじっくり見学できる
 
9036.庭園
城東むかし町家の西は津山洋学資料館です。「出雲街道復元計画」によれば、ここは「匠の町」という施設になる予定だったのですが、計画が変更されたようです。ウォーキングの最中で館内を見学する時間はありませんが、洋学者たちの像を前に津山の洋学についてのガイドがあります。その後、北側の駐車場で恒例の甘酒休憩となります。今回は最終回、岡山県内の出雲街道踏破記念として、ここで新庄村の「出雲街道結び米」がおみやげとして配布されました。

9039.津山洋学資料館前でのガイド

9040.裏の駐車場で休憩
 
休憩を終えると箕作元甫の旧宅がある西新町から続きを歩いていきます。西新町は城東地区の中でも古い建造物が最もよく残っているだけでなく、電線が地中化されて街並みの景観が優れています。「出雲街道復元計画」で電線の地中化が計画されていましたが、現在のところ実現しているのは西新町だけです。城東地区でも観光の核となる町だけに、新しい店も次々とオープンしています。看板が印象的な薬屋はその看板を掲出したままカフェとなっていて、今日の弁当を用意してくれたその向かいの和風創作料理店も新しいお店です。また、こうした変化が著しい町だけに、重要伝統的建造物群保存地区における古い建物の保存や改装について、ガイドの方から地元住民視点での話が出てきたりしたのも興味深いところでした。

9039.箕作元甫旧宅前

9040.薬の看板のカフェ
 
9041.昼食の弁当はこのお店のもの
大曲りを通過すれば中之町です。東新町や西新町と比べると古い建物の割合は下がりますが、もちろん重要伝統的建造物群保存地区に含まれているため建物の改築等には規制があります。9043の写真のように改装されたばかりの観光客向けの店の隣に、昭和レトロな看板を掲出したまま老朽化しているような店(跡?)があったりして、新旧がこんがらがって混在しているような面白い景観が見られます。
町内にある作州城東屋敷は平成5年(1993年)に整備された施設で、「出雲街道復元計画」にもその整備が明記されています。城東地区の街並み整備の端緒を切った施設と言え、平成7年(1995年)に公開された映画「男はつらいよ」のロケ地となりました。そのときの写真が中に飾ってあるのですが、やはり観光地化が進む現在とは街の雰囲気が少し違っています。

9042.大曲り
 
9043.きれいな店が増えた

9044.作州城東屋敷
 
次の勝間田町には近年まで津山を代表すると言えるほどの酒造場が立地していましたが、その旧酒造場と付属するいくつかの建物が令和2年(2020年)に新たな宿泊施設として生まれ変わりました。「出雲街道復元計画」が策定された昭和末期の時点では町家を宿泊施設にする発想もなかったでしょうし、そもそもこの酒造業者が休業することになるとは全く予想できなかったことでしょう。このように計画外の変化により、数年で大きくその景観を変えることになったという場所もあります。

9045.大きく変わった勝間田町
これまで出雲街道と街道沿いに見える建築物を主に見てきましたが、城東地区の出雲街道には北の上之町へ接続するたくさんの小路があります。出雲街道沿いの観光整備が進む中、スルーされがちな上之町ですが、大隅神社や千光寺などの寺社も多く、津山のガイドの方はそちらにも立ち寄ることをいつもおすすめされます。また、林田町辺りまで来れば、建物の合間から津山城跡が見えるようになってきて、私のいたグループのガイドの方はこの角度から見る津山城跡がお気に入りだそうです。

9046.上之町への小路
 
9047.ところどころで石垣が見える
橋本町で大きく曲がると宮川に架かる大橋を渡ります。重要伝統的建造物群保存地区は橋本町までですが、津山城下の中心はもちろん大橋を渡った西です。大橋の西詰は江戸時代には大番所が、明治時代には美作国の道路の距離元標があった場所です。
大橋を渡った先は昭和の津山の中心市街地と言えるエリアですが、城下町の町割りは江戸時代とほぼ変わらないまま残っています。材木町や伏見町は観光客向けの店がほとんどになってきた城東地区とは違って、衰退傾向ではあるものの地元住民が利用するような店が多くあります。私も津山に住んでいた小さい頃、親に連れられて行った店がこの近辺にはいくつか現役で残っていて、参加者にも津山在住者や在住経験者が多いので、そういった思い出も話題の一つとなります。

9048.宮川大橋

9049.東大番所跡
 
9050.伏見町から京町へ
伏見町から京町に入り、9051の写真を右折します。津山城の外堀跡の手前には金刀比羅宮の小社がありますが、これは元々津山城内にあった社が移築されたものであり、江戸時代後期の城主である松平家の葵の家紋が見えます。

9051.京町で右折
 
9052.金刀比羅宮に松平家の家紋
京橋御門跡でゴールして流れ解散となります。先述のように今回がこの「つながる出雲街道を歩こう会」の最終回となりますが、前回も今回も歩けていない京町内の約80mの間を歩いて出雲街道の踏破にこだわった方もおられました。また、この日は津山の一部の町や神社の祭の日であることも紹介されていたので、だんじりを見るために残った参加者もいらっしゃいました。

9053.京橋御門跡に到着
 
「つながる出雲街道を歩こう会」の最終回は、岡山県内の出雲街道の中でも最も見どころも多く、整備も進んでいる津山市の東半分を歩きました。

岡山県の出雲街道の中でも観光地としての整備が最も進んでいる場所でもあり、特に津山城東地区ではイベント参加者以外の観光客も多く見かけ、首都圏などかなり遠方のナンバープレートの車とすれ違うことも一度や二度ではありませんでした。
今回、偶然に昭和末の「出雲街道復元計画」を入手していましたが、当時の津山市民の中では城東地区の街並みが観光資源だという認識は薄く、約30年の間に時代が変わったという感じがします。これは単に津山市が出雲街道を観光資源として育てていく計画を策定し、ハード面の整備を推進したというだけでなく、地元の伝統行事を大切に守ったり、市民の中にボランティアガイドをする人が増えたりしたというソフト面での成果でもあると思います。私が出雲街道を歩き始めてからの約8年の間でも、時代に合わせて津山の出雲街道が観光地として着実に進化してきているということを実感しています。

また、参加者レベルの話としてうれしかったのは、以前、県外の出雲街道を歩くイベントを私に尋ねてこられた方に「奥日野ガイド倶楽部」の「出雲街道散策」をお教えしていたところ、その方は一度「出雲街道散策」に参加されただけでなく「奥日野ガイド倶楽部」のイベントの常連になったという話をお聞きしたことでした。小さなことですが、これも「つながる出雲街道」の大きな意義だと思います。

この「つながる出雲街道を歩こう会」は今回で最終回となりました。真庭市で「勝山宿の会」が「出雲街道を歩こう会」を始めてから、主催者を「勝間田宿の会」に変えて岡山県の出雲街道を踏破するに至りました。「勝山宿の会」の会長も88歳となりましたが、活動を始めた頃にはここまで長くイベントが続き、これほど自分たちの活動が広がるとは思っていなかったことでしょう。最初の「歩こう会」からの約10年間、多くの団体がこのイベントに関わったことが今後に「つながる」のは間違いないところです。
私も8年前からこの「歩こう会」に参加したことが「出雲街道を歩こう」のサイトの運営を本格化させる大きなきっかけの一つとなり、この場を借りて厚く御礼を申し上げます。

さすがにもう次回「歩こう会」は計画されていないようですが、決してこれで「勝山宿の会」「勝間田宿の会」の活動が終わりというわけではなく、それぞれに次の活動について構想をお持ちのようです。地元の有志グループの活動について、今後も期待したいところです。
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