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安来港と町の繁栄を巡る(平成30年10月27日)
このコーナーで初めて島根県の町を歩きます。自宅から遠く、どうしても訪れる機会が少なくなる島根県は他の3県に比べて知識不足で、このような機会を持ちたいと思っていましたが、ちょうど安来市街で定時ガイドツアーが開催される日に現地に行くことができました。安来市の有名観光地として思いつく場所と言えば、どうしても旧広瀬町内の足立美術館や月山富田城跡となりますが、安来の中心市街も日本遺産「出雲國たたら風土記 〜鉄づくり千年が生んだ物語〜」の構成文化財の一つです。正直に言って地味な場所であり、私自身の知識もほとんどない場所だからこそ、たくさんのことを学びたいと思います。

当日は安来駅に併設された安来市観光協会に向かいます。予約も不要でわかりやすい場所に時間通りに行けばよいというだけの非常に参加しやすいガイドツアーですが、開始時刻の13時30分が迫っても参加者らしい人は一向に現れず、結局参加者は私一人だけ、ガイドの方とマンツーマンとなってしまいました。さびしい状況ではありますが、そのぶんマイペースで歩き、遠慮なく会話ができるという非常に贅沢な時間を過ごせるので、ある意味ラッキーです。

8401.安来駅前の北前船のモニュメント
 
>拡大画像 駅前モニュメントの案内板
早速、駅前の北前船のモニュメントのところで十神山と北前船についてのガイドがあります。安来港のすぐ脇にある十神山は山の形も美しく、一番にガイドがあったことからも想像できるように、安来のシンボルと言える山ですが、この日の時点の当サイトでは「十神山」という言葉は1回も登場しておらず、いきなり今日はしっかり勉強しなければならないと思わさせられます。

8402.安来駅前交差点から見る十神山 
国道9号をしばらく西進し、日立坂下交差点のもう一つ西の通りで港の方へ向かいます。この付近は古くからの港町であり、また、安来港周辺の中海には赤貝が多く、それを餌にするウナギがよく獲れ、出雲街道を介して各地に運ばれていたことも紹介されました。また、北前船の寄港地である安来は日本海側の各地の文化が多くもたらされる場所であったことも影響して、多くの文化人を生まれた場所でもあり、明治から大正時代の彫刻家である米原雲海の生誕地もこの通り沿いにあり、現在は記念碑が立てられています。

8403.港町の路地を行く
 
8404.米原雲海生誕地の碑
>拡大画像 米原雲海生誕地の案内板
松江藩の番所があったというスポーツ用品店のところで左折して、右に港を見ながら新しい道路を進んでいき、十亀大橋の南詰で斜め左に入ります。この付近の道路形状や建物の並び方はかつての湖岸線の形を想像させてくれます。

8405.松江藩の番所跡
 
8406.湖岸に沿った新しい道路
次に立ち寄ったのは為替蔵と築港費義捐人名碑です。朽ちかけてはいるものの現役の古民家として残る為替蔵は、文政年間に始まった山陰最古の金融機能を持った組織で、一方の築港費義捐人名碑は明治時代に近代的な港に改良するための資金を出し合った人々の記念碑です。いずれも港町安来の民間の経済の史跡で、政治の中心地であった城下町松江とは違ったストーリーでの町の発展を象徴しています。

8407.為替蔵

8408.築港費義捐人名碑
 
為替蔵から少し折り返し、港から市街へのメインストリートだった西灘通りを南下していきます。今は注意してみないと他の通りとの区別もつきにくくなっていますが、よく見れば古くて立派な建物が多く残っているのがこの通りで、語るべきエピソードがある場所で足を止めながら歩いていきます。西灘通りで特に多かったのは鉄問屋だったそうで、出雲の鉄がまず安来の港に運ばれ、全国各地に送り出されていったことをよく表しています。8409の写真の建物は現在の日立金属安来工場のルーツとなる雲伯鉄鋼合資会社の跡です。また、西灘通りには大正から昭和戦前にかけての文筆家である永井瓢斎の生誕地の碑もありますが、国道沿いにある語臣猪麻呂の像の顔はこの永井瓢斎をモデルにしたそうで、神話の世界の人物に郷土の人物の顔を当てるという発想も、地元ガイドからそういったこぼれ話が聞けるというのも面白いものです。

8409.旧雲伯鉄鋼合資会社

8411.西灘通りの街並み
 
8412.永井瓢斎生誕地の碑
>拡大画像 永井瓢斎生誕地の案内板
そのまま西灘通りを南下すれば国道の西小路交差点で、ここは東からやってきた出雲街道(山陰道)が南に曲がる交差点でもあり、全国各地からの海路と陸路が交わる、まさに安来の中心地であり、山陰屈指の交通結節点だった場所です。交差点の北東側には旧安来銀行の門が保存されていますが、その流れを汲む山陰合同銀行安来支店に入ると、見事なレンガ造り建築であった在りし日の安来銀行本店の模型が展示されています。

8413.店内に展示された旧安来銀行本店の模型
>拡大画像 旧安来銀行本店の案内板
港からの道が旧街道に合流すると、旧天界酒造や並河家住宅という安来を代表するような堂々たる家屋が並ぶようになります。単に出雲街道を歩いて見たとき以上に、ここが安来の中心であり、それにふさわしい家があったとの実感を持つことができました。

8413.旧天界酒造
 
8414.並河家住宅
安来中郵便局のところで右折すれば、中市場、大市場とこれまで通ってきた道筋よりも比較的庶民的に見える商業の町になります。地元で生まれ育ったガイドの方も、中市場から大市場にかけては小さい頃から買い物や通院でよく来ていた商店街だと話されていました。道沿いにある原本家住宅では脇の小路から裏手に回ってガイドを受けます。山陰本線の線路近くまでの広い敷地が高い塀に囲まれ、見事な古木もある庭、複数の蔵などから古くからの有力者の家であることがよくわかります。原本家は文化、芸術の振興にも尽力されてきたそうで、横山大観らの芸術家たちも逗留された家でもあります。

8415.原本家住宅
>拡大画像 原本家住宅の案内板
次に立ち寄るのはやすぎ懐古館一風亭(旧鎌田本店)です。ここは普段から観光客も中に入れる場所で、私も中を軽く見学させていただいたことはありますが、このときは運良く館長がいらっしゃり、館長による詳しいガイドを受けることができました。一見すれば通りに面した横長の建物ですが、中庭を挟んで奥行も相当に広いことに気づかされ、店のスペース、客人用のスペース、住み込みで働く人のスペースとそれぞれの意味を解説してもらいながらほとんどの部屋を見せていただきました。細かな部分では、座敷にある大山を中心とした山並みが彫られた欄間や、店の一階から二階の間で荷物用エレベーターの役割を果たす長方形の穴が空けられていること驚かされました。

8416.中庭

8417.欄間は山陰の山並み
 
8418.荷物を上げ下ろしした穴
ここから先は、これまでの会話の内容ややすぎ懐古館一風亭の館長のアドバイスを受けて、コースのアレンジが始まります。参加者が私一人なので、これはとてもありがたく、うれしいことです。
まずは宿場町としての安来市街の西端まで行って、少し南の地蔵堂へ向かいます。この地蔵堂の脇には伊能忠敬が測量で使用した梵杭があったそうです。出雲街道はここから木戸川を渡って西の一里塚の方へ向かいますが、さらに南下して山陰本線の線路をくぐり、御幸通りで東へ戻っていきます。

8419.安来宿西端の地蔵堂
 
8420.南にも古い市街が続く
御幸通りという名前の由来は後醍醐天皇が隠岐配流の際に通られた道だとの言い伝えによるもので、中市場から大市場にかけての江戸時代や明治時代の街道筋よりも古い時代の街道と言えそうです。道沿いには大イチョウが印象的な安来神社、また、南に入れば後醍醐天皇が隠岐への出航前に立ち寄ったという乗相院もあり、歴史的に重要な道であったことを感じさせます。帰ってから地図を見返して気づいたことですが、御幸通りは現在でも県道9号に指定されている道でもあります。

8421.御幸通り

8422.安来神社
 
8423.乗相院の手前から松源寺へ
乗相院の手前で左折し、寺院が並ぶ市街の南の丘の緩やかな坂道を上って松源寺に向かいます。途中の墓地からは安来市街が一望でき、この日は天気が今一つで、あまり良い写真は撮れませんでしたが、ここからは安来の街と十神山、そして中海や島根半島、美保関までがよく見え、ここまで歩いてきた街の構造がよくわかります。松源寺の紅葉の美しい石段、先にご紹介した米原雲海の作品である山門の仁王像や、見どころたっぷりの寺です。同じく安来出身の陶芸家である河井寛次郎の顕彰碑があるのもこの寺です。

8424.市街を一望

8425.松源寺の本堂
 
8426.河井寛次郎の顕彰碑
長い石段を下って御幸通りに戻り、東へ戻っていきます。厳密に言えば東北東に向いており、ほぼ東西にまっすぐ伸びている山陰本線にぶつかってもその先に東北東への道が続いているが見えるのはまさに鉄道開通前からの古い道筋の証と言えます。さすがに踏切だけは線路に対して直角につけられていますが、その踏切の名も「広瀬街道踏切」となっています。中市場の旧街道筋に戻り、もう一度並河家住宅や旧天界酒造の前を通って西小路交差点に戻ります。

8427.広瀬街道踏切付近
 
西小路交差点の北東側には先述した旧安来銀行本店の跡がありますが、北西側にも国の登録有形文化財となっている山常楼という料亭があります。ここは現役の料亭で、このときはお客さんがあったようで中にまでは入れませんでしたが、昭和初期の堂々たる和風建築です。余談ですが、店の前のポスターで見ると、いわゆる高級料亭のお値段ではなく、リーズナブルな価格で利用できるようです。

8428.山常楼
>拡大画像 山常楼の案内板
ここからは国道で安来駅に戻っていきますが、ここも出雲街道の道筋であり、沿道には先述した河井寛次郎の生誕地の碑や語臣猪麻呂の像があります。そして語臣猪麻呂の像の南側の空地は松江藩の本陣が置かれていた大きな屋敷の跡だそうです。その先は近道だからと、語臣猪麻呂の像から斜め右に入る細道に入り、駅の駐輪場の脇を通って駅に戻ります。後で写真や図面を見て気づいたことですが、ここも旧街道の道筋のようです。本陣跡の空地や駅への細道は一般的な名所とは言えませんが、最後に出雲街道そのものについてもこれまで知らなかったことを2つ知って駅に帰着することになりました。
最後は観光協会前の椅子に座って、今日、中にまでは入れなかった場所の写真や、安来が生んだ文化人たちの作品の写真を見せていただいて終了になります。所定2時間のところ、私のためにアレンジしていただいた結果、20分ほどオーバーしての終了となりました。

8429.語臣猪麻呂の像

8430.河合寛次郎生誕地の碑
 
8431.本陣跡
>拡大画像河井寛次郎生誕地の案内板
定時ガイドツアーで歩いた安来の街、何よりもまずこの手のガイドツアーに参加することも少ないと思われる(しかも出雲街道についてだけマニアックな)30代男性一人だけを相手にするという、ある意味非常にやりにくい状況だったかと思いますが、話題やコースをアレンジしながらご案内してくださった女性のボランティアガイドの方にお礼を申し上げなければなりません。私相手に少し恐縮気味のように思えましたが、ガイドという仕事において一番大切だと思われる「相手に合わせたガイドをして、満足してもらうこと」をすごく心がけていらっしゃることがよく感じ取れました。単に安来の街の知識を得るだけではなく、もっと大切なことを学ばせていただいた気がします。本当にありがとうございました。

もちろん、これまで知識が不足していた安来の街について勉強になったのも言うまでもありません。単に旧街道歩きをしていた中で欠けていた港町という視点を加えてみれば、安来の街が全く違うものに見え、陸路と海路の交わる場所において独自の発展を遂げていたことがよくわかりました。姫路や津山や松江という一国を代表する有名な城下町とはまた違った町の発展のストーリーは特に経済と文化の側面からよく見え、これまで私が知らなかったような文化人を多く輩出していることはそのことを象徴しているように感じました。有名観光地となっているような名所はなくとも、やはり「日本遺産」の構成文化財となっているだけのことはあります。

唯一、参加者が私一人だけだったことは残念でしたが、正直、安来市街の観光市場での知名度を考えれば、現状では仕方のないことなのかもしれません。ただ、決して島根県のこのシリーズのガイドツアーが不評なわけではなく、翌日、ガイドツアーが行われている時間帯に松江市旧東出雲町の揖夜神社を通りがかったときには、ガイドツアーに参加するグループ客で賑やかな状態になっていました。広範囲に情報を流し、松江城や出雲大社のようないわゆる有名観光地以外でも定時ガイドツアーを行う島根県と、それを実行されている地元の方々の取り組みは時代を先取りしたものだと思いますし、私も当サイトの運営において知られざる地域の魅力をもっとうまく伝えられるようになり、地域を歩いて学ぶツーリズムの定着化に少しでも貢献できたらと思います。
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