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つながる出雲街道を再び歩こう会 久世〜勝山(令和5年10月29日)
「つながる出雲街道を歩こう会」は岡山県の出雲街道を踏破し、前回から鳥取県の出雲街道を歩き始めていますが、今回は岡山県に戻って久世〜勝山で2回目を歩きます。この区間は私が「出雲街道勝山宿の会」の存在を知る前に歩いた区間であり、「出雲街道勝山宿の会」としては本拠地と言える場所で原点回帰と言える「歩こう会」が行われることになります。
今回の集合場所は中国勝山駅。集合場所が駅なのは、今回、スタート地点への移動にバスではなく列車を利用するからです。列車を利用する理由としては、前回と次回(予定)の鳥取県開催の合間の「再び歩こう会」で予算が不足したという事情の中、姫新線の利用促進に賛同し、勝山〜久世という鉄道利用が可能なところで姫新線を利用しようということになったためです。

9201.中国勝山駅に集合
 
9202.駅の待合所で受付
そして津山行の列車に乗って久世を目指します。車内の乗客数は十数名でしたが、中国勝山駅からの約50名の乗車で一気に賑わいます。1両の列車には座りきれませんが、立てば余裕の人数であり、1両とは言え大量輸送機関たる鉄道の実力を感じます。列車に乗るのがかなり久しぶりという参加者もおられますが、こうした機会を増やして地方の公共交通機関を支えたいものです。中国勝山駅からわずか6分で久世駅に到着し、駅前で挨拶と説明があります。

9203.姫新線に中国勝山から乗車して

9204.久世で下車
 
9205.久世駅前で挨拶と説明
久世駅から出雲街道歩きのスタート地点となる天神橋までは700mほどの距離があり、国道の北の道を東へ進んでいきます。久世市街は旭川と出雲街道に沿った東西方向の市街地というイメージですが、北の方にも古くて立派な建築物が多く存在しています。

9206.大山道と交差
三坂川を渡ると右折してあとは川沿いの道を下っていきます。なお、ここで正面に進めば目木までの脇街道です。久世から目木までの間の出雲街道は大庭を経由して南に迂回しているため、この脇街道が近道としてよく利用されていました。この区間は平成27年(2015)の「第5回出雲街道を歩こう会」で歩いており、8年前のことを懐かしく思い出します。

9207.直進すると脇街道
今回のコースで出雲街道に入るのは三坂川に架かる天神橋から。ここには樹齢300年と言われる華蔵庵の松があり、久世宿の東の要と言える場所でした。

9208.華蔵庵の松の下でガイド
かつての久世宿はアーケードの商店街です。江戸時代から高瀬舟が発着し、岡山県内最大規模の牛市も開催されていた久世は、近代以降の発展も著しく、そのアーケード街は(老朽化により撤去された部分もありますが)500m以上の長さがあります。江戸時代の街道宿場町らしい雰囲気は薄いのですが、その町割りはほぼ昔のままで、古い家が看板建築になっていたりして、近年は本物のレトロ商店街として人気が高まってきています。

9209.久世の商店街を行く
久世駅に出る通りまで戻ったところで少しだけ北に寄道し、久世の代官所跡に立ち寄ります。久世は江戸時代の約半分の期間は天領となっており、銅像も立てられている早川代官のような名代官の善政もあって、津山藩や勝山藩の領地とは異なる発展を遂げてきました。
ところで、写真9210で早川代官の像の周りがやけにすっきりしていることに気づく方もおられると思いますが、この場所では3月に火災があり、重願寺の本堂も全焼してしまいました。久世では10月にも商店街で建物を全焼させた火災があったそうで、その跡は生々しく残っていました。古い建物が密集し、空き家も多い地方の市街地は火災に弱いという現実を見せつけられたような気がします。

9210.久世代官所跡

9211.焼失を免れた陣屋門
 
旧街道に戻るとアーケード街はまもなく終わりますが、最後の100mほどで目立つのは昔ながらの旅館で、これらはかつての博労宿です。久世の牛市は久世宿を西に出たところで開催されており、旧宿場の西端の上えびす様のところから見れば、旧街道沿いの街並みの北、重願寺の西には空き地や駐車場や新しい住宅しかない区画がかなり広いことがわかり、そこが牛市の開かれていた場所でした。

9212.旅館の続く上町
 
9213.上えびす様の裏が牛市の場所
国道313号と交差するところからは昼食休憩場所となる真庭市交流定住センターに向けてまた北に寄道です。この道は久世神社への参道にあたり、姫新線の踏切も宮道踏切という名前です。交流定住センターでは真庭市産食材が100%に近い「真庭あぐりガーデン」の弁当をいただきます。

9214.右側通行で国道を歩く
 
9215.涼しげな板井原川
昼食休憩中に勝山の三浦氏についてのガイドがありました。内容は長くなるので省略しますが、戦国時代の高田城主だった三浦氏(「先三浦」と呼ばれる)および江戸時代中期以降の勝山城主だった三浦氏(「後三浦」と呼ばれる)の話で、ともに元は源頼朝の腹心で、昨年の大河ドラマの「鎌倉殿の十三人」の一人にも数えられる三浦氏の子孫になるというような話を家系図などを用いて話してくださいました。説明されたのは高齢の「出雲街道勝山宿の会」のメンバーのサポートするために一部のガイドを担当された方で、ご自身で描かれた図やイラストを多用した説明はとてもわかりやすかったです。

9216.勝山三浦氏についてのガイド
再び姫新線と国道を渡って旧街道に戻り、西へ歩き続けます。この付近では概ね旧街道の道筋が旧国道となっており、比較的広い道が直線的に続きます。この付近で私が先導をしていたのですが、写真9217の六地蔵等がある場所で足を止めるのを忘れそうになってしまいました。
国道に合流するところにはグンゼの久世工場がありましたが、今年(2023)1月に100年近い歴史に幕を下ろしました。広大な空き地ができてしまっていますが、ここは国道沿いの便利な場所ということもあって、幸いにして跡地の利用はすぐに決定しています。

9217.六地蔵で足を止める
 
9218.グンゼの工場がなくなった
グンゼ久世工場跡を過ぎると今度は国道の北にある黒尾地区の旧街道に入ります。ここは集落入口の六十六部供養塔に始まり、愛宕宮、天摩宮、地神、そして津山元標七里の里程標と、小社や石造物が多く見られ、旧街道らしい雰囲気が残された道です。

9219.黒尾地区の旧街道へ
 
9220.山沿いに小社や石造物が多い
朝日神社の前で神社およびそこから姫新線の線路沿いを通っていた旧街道のガイドがあり、そこから南下して国道を横断、浜橋を渡って旭川の南岸に移ります。旧街道の道筋はもちろん旭川北岸ですが、歩道がなく交通量が多い国道を約2kmにわたって歩かなければならなくなるので、ここは迂回します。

9221.朝日神社前を通過
 
9222.旭川の南岸へ
旭川の南岸は旭川りんくるラインという自転車道になっており、大人数でも安心してゆっくりと歩けます。迂回した区間には淡月橋という橋があり、その付近に供養塔などの石造物があること、通ることはできないものの何カ所かで道の跡が確認できたことなどについてガイドがありました。はるか遠くからのガイドではありましたが、障害物がなく見通しが良いため、どのあたりのことを話されているのかははっきりとわかり、国道と鉄道によって失われた旧街道の絵が浮かぶようでした。

9223.対岸の旧街道と史跡についても語られる
旭川の北岸に戻って姫新線の出雲街道架道橋をくぐれば、「出雲街道勝山宿の会」が平成24年(2012)から平成25年(2013)にかけて20カ所に設置した平成の道標に迎えられて原方の旧街道に入ります。「出雲街道勝山宿の会」も結成から10年以上が経過し、出雲街道および大山道の「歩こう会」もこの日を含めて21回開催と、その実績もかなりの数に増えてきました。この道標は北の山沿いを指しており、それに従って進んでいきますが、これは江戸時代中期頃までの道筋で、この辺りからほぼ真西に進んで現在の中国勝山駅付近から新町に入る新しい道筋も存在します。

9224.平成の道標に従って進む

9225.ほとんどの交差点に道標あり
 
原方から勝山市街に入るまでにあるメンバーの自宅敷地内で甘酒をいただきながら休憩します。甘酒がおいしいというだけでなく、兵庫県境から鳥取県日野町に至るまで、毎回必ず甘酒を用意して駆けつけてくださるその気持ちがうれしいところです。今回は自家栽培のモリンガ茶も出してくださっており、健康食品として注目されている割にクセのない味で、毎回の感謝も込めて購入させていただきました。

9226.甘酒をいただいて休憩
引き続き山沿いを西へ進んでいきます。旧街道としての道が途切れている部分もありますが、平成の道標は随所にあって旧街道の道筋に最も近い道順を案内してくれます。龍玄寺跡では滋賀県の永源寺の開祖となった寂室禅師についてのガイドがあります。そのようなはっきりした史跡だけでなく、この付近には小社が多くあるのですが、参加者の中から子どもの初参りに行く際、高田神社に行く前にこの辺りの社に参拝したというような話も出てきます。肝心の場所を覚えておられず話が二転三転し、突っ込まれて笑いが起きるような場面もありましたが、そんな小社に地元の人の実体験談があること、それを和気あいあいと話せる場があることは何より大切なことだと思います。

9227.龍玄寺跡

9228.山沿いには小さな社が多い
 
高田神社の前で集合写真を撮影します。神社の前にあるのは一里塚の跡で、平成30年(2018)に「出雲街道勝山宿の会」が整備した木製の標柱が立てられています。ここからは坂道にかかり、大曲りを曲がって勝山の城下町に入っていきます。

9229.高田神社前で記念撮影

9230.勝山の一里塚跡
 
9231.坂を上って勝山の市街へ
坂を上り詰めると、北側には化生寺、玉雲宮、安養寺の順で広い寺社が並んでいます。これも長くなるので詳しくは書けませんが、特に殺生石については玉藻前や三高田の伝説などが語られます。

9232.勝山の寺社についてのガイド
一方、南側は城下町の時代には武家屋敷が並んでいました。写真9233はほぼ完全な姿を残す武家屋敷館(渡辺屋敷)で、その前で城下町としての勝山についてのガイドがあります。古い街並みが観光地となってきた勝山ですが、この辺りには若い世代が住むような新しい住宅も見られます。学校(小中高とも)、スーパー、病院、駅などが徒歩圏内という真庭のような田舎では稀なほど便利な場所であり、市街があまり拡大していない勝山では生活と観光が共存しています。

9233.城下町についてのガイド
坂道を下ると、町並み保存地区に到着します。写真9234の交差点には道標もあり、ここで勝山の町並み保存地区についてのガイドがあります。

9234.町並み保存地区に到着
町並み保存地区には勝山郷土資料館があり、その前には岡山元標十九里の里程標と2つの道標が保存されています。里程標は少し前まで旧勝山図書館の前で保存されていたのですが、真庭中央図書館のオープンに伴い、旧勝山図書館は取り壊され、道標もこちらに保存場所が変更されました。そうした道標のトークをしている中で、同じ真庭市勝山エリアの福谷地区では大山道を示す道標が原位置に近いところに再移設されたという話も聞くことができました。
また、この場所には国土交通省中国地方整備局の「夢街道ルネサンス」の認定証が2つあります。1つは平成14年度(2002)認定の「出雲街道勝山」で町並み保存地区におけるまちづくり活動が評価されたもの、もう1つが令和元年度(2020)認定の「つながる出雲街道」で、「出雲街道勝山宿の会」が主に行ってきた真庭の出雲街道全体の顕彰活動が評価されたものです。旧街道の保存活用には旧宿場町における「点としての活動」、その中間を含めた「線としての活動」が車の両輪と言え、勝山ではその両方の活動が継続して行われてきたことの証です。

9235.勝山郷土資料館前に保存されている道標

9236.勝山のまちづくりと
 
9237.つながる出雲街道のダブル受賞
この日のゴールは旭川に架かる神橋です。橋の東には元禄・嘉永・平成の3つの道標が並んでいます。元禄と嘉永の道標は紛失したり移動したりしたこともあるため、方向がわずかにずれていますが、位置としては神橋の東詰が原位置です。また、神橋は初代の橋が寛文5年(1665)頃に架けられていたという古い橋で、江戸時代の絵図にも「往還橋」という名前で描かれています。ここで「歩こう会」イベントは終わりとなりますが、参加者の中には誘い合ってさらに街歩きに出かける方も見受けられました。

9237.神橋でゴール
今回は「つながる出雲街道を再び歩こう会」ということで、久世から勝山という「出雲街道勝山宿の会」にとっては正真正銘の地元開催となりました。前回が鳥取県で開催されたということで、鳥取県からの参加者が多くなることを期待したのは期待外れに終わりましたが、逆に地元真庭市民の参加が多くなりました。歩いている途中で沿道の方々から声がかかることも多く、ここでは詳しく書ききれませんがガイドの内容も歩きながらの会話も地元感満載のもので、まさに地域密着型のイベントとなりました。

個人的にも道標の移動についてのことなどの裏話も聞けたし、一参加者として来られていた「奥日野ガイド倶楽部」の方ともお話ができたことにより、単に出雲街道や沿道の史跡についてだけでない知識を得ることができました。その内容は今後当サイトの運営にも役立つもので、一つずつ活用していきたいものです。

今回大きく変わったのは姫新線を利用したことです。ローカル線の苦境は大きな問題となりつつありますが、存廃問題が具体化してきた芸備線の一部区間のように、1日あたりの本数が片手で足りるほど、利用も数十人しかないというレベルに至る前に利用促進を図ることが重要でしょう。私自身、田舎に移住してからは日常生活での列車やバスの利用は少なくなっています。しかし、出雲街道歩きのときには、アクセスこそ車を利用しますが、車は駐車場に置いて歩き、公共交通機関で戻ってくるというパターンとなることがほとんどです。都市部在住で街道歩きをされる方々のSNS等を拝見すると、首都圏等の遠方から公共交通機関で来られている場合が多く、街道歩きが公共交通機関の利用促進にもつながっています。

次回は、「出雲街道勝山宿の会」「奥日野ガイド倶楽部」で根雨と二部の間での開催を計画中で、現在の計画通りなら来年(2024)5月19日(日)に開催されることになります。美作国の出雲街道を歩き通して終わるはずだった「つながる出雲街道を歩こう会」の延長戦もいよいよ終わりが近づいてきましたが、最後の最後まで楽しく元気に出雲街道を歩き続けたいものです。
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