出雲街道は伯耆国で舟場、溝口、八幡または車尾と、3度日野川を渡ります。距離としても遠回りになるだけでなく、3度にわたる渡河のため、舟の手配や輸送の安定性の面でも問題は多かったことでしょう。そのため、参勤交代で出雲街道を通る松江藩が他領内にも関わらず整備したのが「新出雲街道」で、日野川を渡るのを1回のみとし、距離も大幅に短縮しています。
二部宿から野上川に沿って北に向かう途中、三部地区から新出雲街道は分岐します。川沿いの穏やかな地形の中を行く出雲街道に対して、新出雲街道はいきなりの峠越えとなり、南部町(旧会見町)に入ります。旧街道の細道が健在で移設された道標もある池野地区を経て、現在の県道1号の道筋に合流し、天萬地区へと一気に下っていきます。
旧会見町の中心地と言える天萬は宿駅が置かれていた町で、南部町天萬庁舎の敷地内には道標が保存されています。天萬宿の本陣は会見郵便局の向かいの空き地だったそうですが、そのすぐ近くの店の名前からも美作国との出雲街道のつながりを感じさせます。
会見郵便局前の交差点で新出雲街道の道筋は北に向きを変えます。天萬神社の鳥居前でもう一つ道標を見て天萬宿を出ると、周囲は広大な田園風景になり、まもなく米子市に入ります。法勝寺川を渡った榎原地区では旧街道の道筋が残っているところが見られます。
日原地区からは現在の国道181号の道筋となり、宗像土手や宗像神社を見て、南から米子市街に入っていきます。「開かずの踏切」と呼ばれる米子駅東側の踏切の名前は「津山街道踏切」です。最後に瓢箪小路を通り、法勝寺電鉄の車両が展示されているパティオ広場前で出雲街道に再合流します。
また、天萬から米子にかけての新出雲街道は、米子と法勝寺を結んでいた法勝寺電鉄線の廃線跡と概ね並行しています。昭和42年(1967年)の廃止から50年以上が経過した現在でも、駅のホームの痕跡などが見られるだけでなく、一部の駅では駅名看板が再現されています。
新出雲街道の沿線は、山間部はダム建設や観光開発、郊外部は圃場の整備、市街部は都市の拡大で、旧街道の道筋はあまり残っておらず、歩く楽しさという面では、溝口経由の(旧)出雲街道の方が上でしょう。
しかしながら、直線的で先を急ぐのに最適なルートであることはよく実感できます。私達のような後世の趣味人は変化に富んだ景色を楽しみますが、いつの時代も交通路として重要なのは「安全・安定」や「近い・速い」ということ。その条件を兼ね備えた新出雲街道は、江戸時代の山陰の人々にとって待望のバイパス道路であったと言えます。 |