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第6回絵図で津山城下町を歩く会(平成29年12月3日)
平成28年(2016年)に津山郷土博物館の尾島治館長による「絵図で歩く津山城下町」(吉備人出版)という本が発売されています。この本は、絵図を片手に実際に街歩きをすることを考えてわかりやすく書かれているだけでなく、付録として津山城下町の絵図が付いているのも大きな魅力で、私も愛用させていただいていますが、その本に紹介されたコースを著者の尾島館長に解説していただきながら歩く会が「津山観光ボランティアガイドの会」の皆様によって開催されています。私がその会の存在を知ったのは第4回からで、既に7月には(出雲街道との関連が比較的薄い)第4回に参加させていただいており、城東地区の出雲街道沿線を歩く第5回は残念ながら参加できませんでしたが、第6回も城西地区の出雲街道沿線を歩くので、これは参加しなければなりません。なお、このイベントは「出雲街道の道のり」では「12.津山から院庄へ」の一部である津山城西地区をより詳細に歩く形になります。

当日は鶴山公園のすぐ近くにある津山郷土博物館で受付を済ませると翁橋へ各自で移動します。今回のスタート地点となる翁橋は藺田川という小さな川に架かる橋ですが、登録有形文化財になっているというだけでなく、江戸時代にはその東詰に西大番所が置かれていたという城西地区の重要なポイントです。スタート前の尾島館長のご挨拶では、「城下町が発展、変化していく過程」を見ていただきたいとのことでした。

なお、今回の「絵図で津山城下町を歩く会」では、正保2年(1645年)頃の「正保津山城絵図」(国立公文書館蔵)、享保8年(1723年)頃の「津山城下町絵図」(津山郷土博物館蔵)、嘉永7年(1854年)の「津山城下町絵図」(津山郷土博物館蔵)の3つの絵図を使用しており、それぞれ文中では「正保の絵図」「享保の絵図」「嘉永の絵図」と表記させていただきます。

8101.郷土博物館では受付だけ
 
8102.スタートは翁橋
>拡大画像 津山城下町案内図(今回のイベントで歩く部分を拡大)
翁橋を渡って作州民芸館の前を通過すると、早速右折してまず本源寺の門まで行きます。津山藩は慶長8年(1603年)から元禄10年(1697年)までの森家時代と、元禄11年(1698年)から明治維新までの松平家時代に大別できますが、本源寺は森家の菩提寺でした。そのため、正保の絵図と享保の絵図を見比べると、享保の絵図では敷地がかなり広くなっていて、森家時代に寺が拡大したことがわかります。また、この門の西は雑賀町と呼ばれ、森家時代には鉄砲の扱いを得意とする雑賀衆を住まわせていたそうですが、平和になった松平藩時代に雑賀町は消滅したと考えられ、現在も「雑賀町」という町名は残っておらず、小田中地区の一部となっています。

8103.まずは本源寺へ
 
8104.この付近は雑賀町と呼ばれた時期も
Uターンして翁橋西詰に戻りますが、その途中では、西今町の古い民家には城東の街並みとは違った特徴があることの解説もありました。また、ここでは解説者をバトンタッチして、作州民芸館(旧土居銀行本店)がこれまで通説となってきた大正9年(1920年)ではなく明治42年(1909年)に建てられたという、昨年わかったばかりの研究成果も紹介されました。

8105.作州民芸館が建てられたのは明治42年
翁橋から藺田川に沿って下っていきます。まず足を止めたのは泰安寺で、ここは松平家の菩提寺でした。藺田川沿いの道から寺までは何もないスペースがありますが、ここには松並木があったそうで、今も小さな堀が巡っています。また、享保の絵図と嘉永の絵図を見比べると、森家時代の本源寺と同様に、松平家時代に泰安寺が拡大したことが読み取れます。また、その拡大により、8107の写真の地点から西に伸びていた道路が消滅してしまったことも絵図ではっきりとわかります。

8106.泰安寺前のスペースの歴史は…?
泰安寺の南は成道寺ですが、あまり寺らしくない山門が印象的です。成道寺の山門は明治時代に倒壊したため、元鶴山高等小学校の門を移築したものだそうで、さらに遡るとこの門は明治初期の北条県庁、津山藩庁の門として使用されていたものと考えられています。

8107.成道寺の門
>拡大画像 成道寺山門の案内板
翁橋から400mほどで藺田川は吉井川に合流します。現在では高い堤防の上に橋が架かっていますが、江戸時代にはもう少し上に「三枚橋」という橋があったそうで、享保の絵図と嘉永の絵図には橋が描かれています。また、吉井川との合流点が近づくと、享保の絵図と嘉永の絵図では藺田川が少し太く描かれていますが、藺田川の河道がコンクリートに固められた現在でも、吉井川合流点付近では翁橋付近より川幅が少し太くなっています。

8108.吉井川との合流点へ
 
8109.絵図同様に少し太くなる藺田川
続いて西の鉄砲町へ進みます。鉄砲町には絵図では東西方向の道が3本あり、一番南にある吉井川の堤防道路を歩いていきますが、現在でもこの道は周囲の土地より少し高くなっています。8111の写真の地点でこの道は北西に曲がっており、堤防の痕跡を残していますが、現在は道は続いていません。また、このすぐ東には吉井川を渡る「広瀬橋」という現存しない橋が江戸時代後期に架かっていたそうで、嘉永の絵図には橋が描かれています。

8110.鉄砲町のかつての堤防道路
 
8111.ここからも堤防は続く
現在の吉井川の堤防に出ますが、境橋までは行かずにまたすぐに細い路地に入っていきます。聞き逃してしまいましたが、このような細い路地に入ったのにも意味があったようで、途中ではガイドがありました。

8112.吉井川を見ながら
 
8113.細い路地でもガイドが
境橋から続く道路に出て北に戻り、西寺町に入ります。明治31年(1898年)に中国鉄道(現在のJR津山線)が開通した当時は現在の津山口駅が津山のターミナルとなっていたため、大正12年(1923年)に現在の津山駅が開業するまでの約25年間、この通りは津山の中心市街と駅の間を結ぶ重要な道で、城西地区も津山の玄関口として繁栄を謳歌していたそうです。作州民芸館や翁橋、城西浪漫館(旧中島病院本館)など、城西地区にその時期の名建築が目立つ一つの理由だと言えるでしょう。
本題の江戸時代の絵図の話に戻れば、この道路の西側にある寺院は長方形の敷地になっておらず、西側に先述したかつての吉井川の堤防が通る台形をしています。これは西寺町が形成される末期に城下町の中心部から移転した寺院にはこの場所しか残されていなかったためにこうなったものだそうですが、決してこれらの寺が軽視されていたわけではなく、特に出雲街道の南にある妙法寺は西寺町の中でも最大級の敷地の広さとなっています。

8114.境橋から西寺町へ北上 
長安寺の北を右折すると、道は鉤型に曲がっています。ここは先述した泰安寺の裏側にあたる場所で、正保の絵図ではこの付近に十字路があったものが、享保の絵図では鉤型に変わり、嘉永の絵図では東への道がなくなっているというように、道路の形状の大幅な変化が絵図と見比べて最もよくわかる場所です。そして現状はほとんど嘉永の絵図のままで、江戸時代には大きな変化があったのに、明治時代以降に変化がないというのも面白いところです。

8115.鉤型に曲がった道路
 
8116.道の変遷がわかる新高倉神社付近
翁橋のわずか100mほど西に戻り、出雲街道に入って西今町を西へ進んでいきます。厨子造りがほとんど見られないので、さすがに江戸時代に建てられた家はほとんどなくなっているようですが、町人の町らしい古い家並みが並んでいます。次の交差点からは西寺町になりますが、白壁に囲まれた大きな寺院ばかりになり、建物の密度は疎らになります。どちらも江戸時代の絵図に描かれた姿を残した町ですが、こうして絵図と実際の街並みを見比べながら歩くと、その町の性格の違いがより鮮やかに感じられます。

8117.出雲街道を西へ
>拡大画像 西今町の案内板
西寺町では道路の幅が広くなり、この幅は津山城下町の出雲街道では最も広かったと言われています。津山の寺町の象徴とも言える愛染寺の鐘楼門は正保元年(1645年)に建てられたものです。一方、向かい側の妙法寺の本堂は承応2年(1653年)頃に建てられたと推定され、この頃が城西地区への城下町が拡大がほぼ完成に近づいた時期であると考えられます。

8118.愛染寺鐘楼門の前で
>拡大画像 西寺町の案内板
>拡大画像 愛染寺鐘楼門及び仁王堂の案内板
大圓寺を過ぎ、8119の写真の地点が西寺町と茅町の境で、ここには先述したかつての吉井川堤防の痕跡が見られます。茅町は再び町人の町に戻りますが、出雲街道の距離で言うと、西今町が250m程度、西寺町が200m程度なのに対し、茅町は100mにも満たず、すぐに8120の写真の先の交差点の変則的な形状の交差点で右折することになります。

8119.西寺町と茅町の境は昔の堤防
 
8120.茅町
先述した茅町の交差点は、南東に鉄砲町や境橋への江戸時代にはなかった広い道路、西に吉井川堤防への茅町の道路、北西に安岡町への出雲街道、東に西寺町方面への出雲街道が交差し、もう一つ北東への道が接続するという変則的な五差路で、その変則的な形状が津山城下町の拡大過程の痕跡を残しています。正保の絵図では、出雲街道は吉井川にぶつかるまでまっすぐ茅町の街並みが続き、そこで右折して北上する形になっています。これはこの先の安岡町がまだ成立しておらず、後述する筋違橋も架けられていなかったためです。享保の絵図と嘉永の絵図では安岡町が登場して現状に近い形になっていますが、安岡町の出雲街道は茅町に入る直前でカーブして東西の道路に直角に接続するため、後付け感があります。近代になってから鉄砲町や境橋からの新しい道路が整備され、交差点自体も拡大されたため、現在では南東から北西への道が直進しているように見えますが、よくよく見ると安岡町への出雲街道は微妙にカーブしていて、安岡町が後からできたことがわかる痕跡となっています。

8121.安岡町へ入るごく微妙なカーブ
そうして入ってきた津山城下町西端の安岡町は寛文(1661〜1672)頃に津山城下町に編入された町ですが、現在では先述の交差点を曲がって入ること以外は普通に街並みの中に溶け込んでいて、新旧混在の家並みが並んでいるのも茅町同様です。そして安岡町の最後で出雲街道は左折し、紫竹川に架かる筋違橋を渡って津山城下町を出ることになり、今日のイベントもここでゴールです。スタート地点の翁橋の東詰には西の大番所がありましたが、筋違橋の東詰にも幕末期には番所が設けられていたそうです。

8122.筋違橋東詰で津山城下町は終わり
>拡大画像 安岡町の案内板
「絵図で津山城下町を歩く会」は今回が最終回となり、尾島館長、本の出版にご尽力された吉備人出版の担当者の方、「津山観光ボランティアガイドの会」の方よりご挨拶があります。そして最後に、城下町の北を貫く城西通りの陰にひっそりと佇む義信神社にみんなで行きます。ここは命を懸けて津山藩に安岡町の城下町編入を願い出た渡辺藤左衛門義信を祀る神社で、今日のテーマである津山城下町の拡大に尽力した人物を偲んでイベントを終了します。

8123.関係者の皆様からのご挨拶
 
8124.義信神社
解散後に個人ですぐ側の筋違橋へ向かいます。筋違橋を渡ると二宮で、一直線で西へ伸びる出雲街道には戦時中まで松並木がありました。一方で、筋違橋が架かる前の出雲街道はもう少し北の小田中地区の丘陵を行き、現在の城西通りや国道179号の少し北あたりの丘陵を縫っていたそうです。そのような道筋の変化の要因は、津山藩初期の森家時代にあったと言われる大洪水や城下町整備の過程で整備された吉井川の堤防建設で、その結果として紫竹川や藺田川、そして吉井川の流れ方がほぼ現在と同じような形に固定されたそうです。城西地区の安岡町や茅町では平成10年(1998年)の洪水でかなりの被害を出していますが、山間部から出てきた吉井川に数々の河川が合流することで形成された津山盆地では、昔も今も川をいかにコントロールするかという課題と向き合い続けています。
そして、筋違橋から市街への帰りでは、参加者の一人と一緒に帰ります。単純に出雲街道を歩けば1.4kmほどの距離をジグザグに戻り、50分ほどかけて津山市街地の地理や歴史、そして私の参加できなかった第2回「絵図で津山城下町を歩く会」のコースの見どころの一部などをご案内してくださいました。ここでそのご紹介はいたしませんが、本当にありがとうございました。

8125.筋違橋
 
8126.紫竹川が吉井川に合流
「第6回絵図で津山城下町を歩く会」で歩いた城西地区は、津山のシンボルである鶴山公園(津山城跡)や伝統的建造物群保存地区に指定されている城東地区に比べ、比較的地味な場所ですが、城下町時代の歴史の痕跡がこれほどまでに残っているとは知らず、津山生まれの私にとっても新発見の連続でした。津山城下町は江戸時代に描かれた絵図の通りの町が本当によく残っていて、未来に残すべきすばらしい価値を持っていることを実感しました。

そして、何より尾島館長には、本に書いてある内容をさらに深く掘り下げた解説をわかりやすくしてくださり、本当の専門家はやはり違うと感じました。そのおかげで、このイベントでは参加者の方々も非常に勉強熱心で、配布資料の絵図を見ながらメモをとっている様子が目立ちました。本文は私なりに理解した内容で書いているので、ちゃんと書けているか不安ですが、本当にありがとうございました。
「津山観光ボランティアガイドの会」の皆様も日々のガイドとしての活動で、津山を訪れる観光客の方々に津山城下町の魅力や価値を伝えてくださっています。さすがに津山は美作国の中心都市だけあって、歴史に関する研究だけでなく、それを伝えていくノウハウや体制も(出雲街道沿線の中では)よくできていると思いました。私も地域のことをもっと学び、それを上手に伝えていく力をもっと高め、今回お世話になった方々に少しでも追いつけるようになりたいと思っています。

本文でも触れたように、「絵図で津山城下町を歩く会」はこの第6回が最終回でした。しかし、「絵図で歩く津山城下町」を読めば、このイベントと同じコースを歩くことができますので、ぜひ「絵図で歩く津山城下町」を片手に、津山の城下町をじっくり深く歩いてみてください。
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