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第7回 出雲街道を歩こう会(平成28年10月22日)
半年ごとの参加が私の恒例行事となった「出雲街道勝山宿の会」主催の「出雲街道を歩こう会」ですが、第7回は真庭市を出て新庄村が舞台となり、「新庄宿町づくりの会」との共催です。出雲街道の中でも最も山奥にある新庄村、分水嶺の四十曲峠を越える道のり、そしてこれまでお目にかかったことのない方々との出会いも楽しみです。なお、今回歩く区間は本編では「20.新庄から四十曲峠へ」「21.四十曲峠から板井原へ」の冒頭の部分です。
実はこの日は鳥取県中部(倉吉市、北栄町、湯梨浜町)で震度6弱の地震が発生した翌日で、真庭市でも一部地域で震度5強、新庄村や日野町でも震度4を記録し、一抹の不安を抱えての現地来訪でしたが、参加者の皆様が挨拶代わりに地震の話をしていたもののそれらの話からも深刻な話は聞こえず、とりあえずは一安心です。
当日の集合場所は新庄村ふれあいセンターで、集合した人から順に昼食をいただきます。このイベントで毎回楽しみな昼食ですが、ヤマメの塩焼きをメインとし、竹の皮で作られた箱に入った弁当は新庄村の山の幸そのものでした。お茶も12種の天然素材をブレンドしたものだそうで、とても美味しかったです。「京都の観光地や新幹線の駅でもったいつけて売れば2,000〜3,000円で売れる」などと冗談も弾みますが、そういった価値が当たり前のように存在するのが新庄村という場所であるというのは冗談抜きに言える真実です。
昼食を終えると、新庄宿街づくりの会、新庄村役場、出雲街道勝山宿の会それぞれの代表者から挨拶と説明を受け、その後バスやスタッフの車に分乗して、国道の四十曲トンネルで一気に県境を越え、鳥取県日野町の乢根に向かいます。

7501新庄村ふれあいセンターに集合

7502.今回も満足の弁当

7503.出発前の説明

7504.乢根のあの場所から
乢根に着くと、さっそく今回のメインである四十曲峠の峠道にかかります。先頭では、今回は「出雲街道勝山宿の会」ではなく「新庄宿町づくりの会」のメンバーによるガイドがあります。私は後方にいたので十分には聞き取れませんでしたが、「出雲街道勝山宿の会」で出されている「出雲街道(1)ガイドブック」で詳述されていない「うなぎの道」についての説明もあり、日野町の「奥日野ガイド倶楽部」の皆様に教えていただいたことを思い出したりしながら登っていきます。

7505.四十曲を実感
四十曲峠の峠道は前回に私が確認したとき以上にきれいに草が刈られ、快適な道になっていました。しかし、江戸時代の街道としては「東の箱根、西の四十曲」と呼ばれた難所が「街道」というより「山道」であることにもちろん変わりはありません。参加者からも「すごい道」だと感嘆の声が聞こえてきます。一列縦隊になった50名以上の参加者は、文字通り長蛇の列となります。

7506.四十曲峠に到着
四十曲峠に到着すると、案外短い小休止でまたガイドがあります。本編でも触れている通り、四十曲峠は伯耆側が羊腸の険しく細い峠道なのに対し、美作側は比較的緩やかで直線的な太い道となっています。両方とも江戸時代の旧街道そのものなのですが、その違いから、新庄村ではその道を活用して林業が営まれてきたそうです。初めて気づいたこととして、伯耆側は自然のままの広葉樹主体の天然林なのに対し、美作側は針葉樹主体の人工林となっています。
峠を越えると比較的緩やかな山道を下っていきます。このイベントでは万一の事態に備えて毎回「救護車」がついているのですが、今回はメンバー所有のジープが美作側から入り、行けるところまで来ていました。これも四十曲峠における伯耆側と美作側の違いを象徴しています。舗装道路に戻り、二ツ橋集落までの途中には牧場がありますが、そこの牛たちもこれほど多くの人を見るのは初めてなのは間違いなく、落ち着かない様子でこちらを見つめてきます。

7507.美作側は緩やか

7508.舗装された道になる

7509.牛も興味津々
二ツ橋集落には多くの史跡が残されており、7510の写真の馬頭観音のある辻では時代ごとの街道筋の変遷についてガイドがありました。特に多くの参加者が興味を示していたのは「津山元標」の里程標でした。

7510.二ツ橋の馬頭観音

7511.津山元標十五里

7512.六地蔵付近
続いて嵐ヶ乢への峠道にかかっていきます。本来の旧街道は少し東の山道だそうですが、道が荒れていたり切れていたりするので、現在の道路を登ります。それにしてもこの日2度目のきつい登り坂で、疲れた表情の参加者も見受けられます。四十曲峠の厳しさは連続して嵐ヶ乢があることに一因があるのは間違いないところで、こうして歩くからこそ旧街道時代の苦しさを追体験できるというものです。しかし、後ろを振り向けば、毛無山などの山並みがよく見えるこの道は、出雲街道の中でも屈指の爽快な眺めが楽しめる場所でもあります。
嵐ヶ乢では、「出雲街道嵐ヶ乢」の看板や峠地蔵の周りは草が刈られていました。峠地蔵は現在の道路より高い位置にあり、それが当時からの位置と思っていましたが、ガイドによると、かつてはもっと高い位置に道と峠地蔵があったそうです。

7513.旧街道はわずかに東の山道

7514.嵐ヶ乢に到達

7515.峠地蔵

7516.後鳥羽公園での休憩
少し下って後鳥羽公園に至り、ここで恒例の甘酒接待です。先頭集団は予定時刻より30分以上も早く到着してしまいましたが、時間に余裕ができたおかげで参加者同士の貴重なコミュニケーションの時間となります。私も地域の歴史を研究なさっている方や、津山朝日新聞に「出雲街道」などを連載された小谷善守氏の遺作「大山道」をこの春に出版することに尽力された方などにお話をお伺いすることができました。
後鳥羽公園と言えば、隠岐に配流される途中の後鳥羽上皇や後醍醐天皇にまつわる史跡が集中する悲哀の歴史を語る地です。普段は訪れる人もほとんどなく寂しい場所がこの日は少し華やいでいます。

7517.後鳥羽上皇の歌碑

7518.しだれ栗

7519.後鳥羽上皇・後醍醐天皇の配流の道
後鳥羽公園内では現在の道路は勾配の緩和のために屈曲していますが、しだれ栗から直線的に下る道が後鳥羽上皇や後醍醐天皇も通ったとされる古道の道筋です。今回はきれいに草が刈られ、私も初めて歩くこの道で、故人に思いを馳せながら下っていきます。また、この辺りはモミジの木立も美しく、もう少し遅い時期に訪れたなら紅葉も見事だったと思われます。
杉並木、一里塚跡、硯岩と見どころが連続する中をさらに下っていきます。一里塚跡のところでは、旧街道の道に林道が接続していますが、新庄村在住で地域の歴史を研究されている参加者の方によれば、後鳥羽上皇が配流の際に通られた道はこちらの林道の道筋だったそうです。

7520.杉並木の旧街道

7521.一里塚跡

7522.五人塚の前で
戸島川の谷まで下ると、五人塚という史跡がありますが、ここでは史跡のガイドだけではなく、新庄村の名所旧跡が謳われた歌(曲名は失念)が「新庄宿町づくりの会」のメンバーにより披露されました。
力士塚などの史跡に足を止めながら戸島川沿いを行けば、新庄宿はもうすぐです。国道を横断して新庄宿に入り、宿場町の北端の御幸橋で今回のイベントのゴールとなります。

7523.戸島川沿いを行く

7524.国道を横断して新庄宿へ

7525.御幸橋でゴール

7526.脇本陣木代邸
「出雲街道を歩こう会」は御幸橋で解散でしたが、最終コースでは新庄宿についてのガイドがあり、あとは参加者各自で新庄宿(がいせん桜通り)の自由散策を楽しみます。この日は土曜日で脇本陣木代邸も公開されていたので、私も初めて中を見学します。ここは江戸時代末期に建てられた屋敷がほぼそのままに残っており、外見も立派ですが、中に入れば、現在は「さくら茶屋」として活用されている醤油蔵や中庭、井戸や囲炉裏の間などを見ることができます。

7527.居間と中庭

7528.囲炉裏の間

7529.醤油の醸造も行われていた

7530.秋のがいせん桜通り
この日は曇天で写真は今一つですが、紅葉の時季のがいせん桜もなかなか美しい景観を見せ、この次の週の日曜日には「秋のがいせん桜まつり」も開催されます。最後に「新庄宿町づくりの会」代表の方と少しお話をできましたが、がいせん桜は地中から十分に栄養分を得られないため、日露戦争後に植えられたという樹齢100年の桜はごく一部しか残っておらず、よく見れば古い木、若い木、療養中の木があることがわかります。がいせん桜の維持にもかなりの手間暇がかかっていて、その維持の方策についても地元で様々な意見があるそうです。そうした地元の苦労があってこそ、この美しい街並みが維持されていることはよそ者としても忘れずにいたいものです。

7531.苔むした水路の石垣
7回にわたる「出雲街道を歩こう会」もこれで真庭市・真庭郡内のすべての道のりを歩いたことになります。私は第4回からの参加でしたが、思えばこのイベントに初めて参加したことが出雲街道について深く知ろうとしたきっかけでしたし、長い道のりの中でも真庭地域が最も深い知識の得られている区間となりました。「出雲街道勝山宿の会」の皆様方にはあらためて御礼申し上げます。
そして、今回も「新庄宿町づくりの会」の皆様をはじめ、多くの方と出会い、貴重なお話をお伺いすることができました。出雲街道沿線やその周辺地域に多数存在する後鳥羽上皇や後醍醐天皇ゆかりの史跡を点としてでなく、線として捉え、配流の道筋を特定しようと研究されている方の話はとても興味深かったですし、この春に出版された小谷善守氏の遺作「大山道」を読んで大山道を歩き始めたところだったので、それに関連するお話が聞けたのも貴重な経験となりました。年配の地域の皆様方に比べれば、私の知識など薄っぺらいものですが、下の世代としてこれからも地域の古道について学びそして歩き、当サイトを通してできる範囲でご紹介できればと思います。

今回で「出雲街道を歩こう会」は一区切りとなりましたが、また、「二巡目」など、古道歩きのイベントをしていくために関係自治体等と打ち合わせているそうです。また、イベントが開催される際には当サイトでもお知らせしたいと思います。
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