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9-1.吉佐バス停→安来駅
安来・松江東部エリア この区間の地図
<8-3.米子駅→陰田→吉佐BS 9-2.安来駅→安来宿→荒島駅>
●吉佐
山陰本線の御茶屋川踏切を渡って右折すれば、御茶屋川を渡って吉佐の街並みに入ります。伯耆と出雲の国境において、先述のように伯耆側では陰田に番所を設けて国境を警備していましたが、出雲側で同様に番所が設置されていたのが吉佐です。周辺の開発によりその姿がほとんど失われてしまった陰田に対して、近代以降の国道から外れた吉佐では、道沿いに石州瓦の古民家が並んでいたりするなど、昔の面影が今も残されています。特に写真4302の地点では道が直角に曲がっており、防衛機能を持った国境の町らしさが感じられます。

4301.吉佐の街並み

4302.直角カーブもある

4303.街を過ぎると直進
吉佐を過ぎると、国道の南側にある低い丘のさらに南を回り込むようにして西進していきます。久しぶりに静かな田舎道に戻り、「道の駅あらエッサ」もあって賑わっている国道沿いとは対照的です。

4304.支布佐神社

4305.丘陵の南を西進
坂を下ると写真4306の地点を右折、新しい道にぶつかると左折し、すぐに写真4307の広めの畦道に入ります。

4306.ここは右折

4307.この道に入る
●汐土手
ここから歩く道は未舗装の畦道ですが、軽トラックでも通れそうな幅があり、一般的な畦よりは少し高くなっています。これは塩分を含む汽水湖の中海の水が田畑に入り込むことを防ぐ役割を持っていた汐土手と呼ばれる堤防で、道としての役割も兼ねています。現在、この付近は中海の湖岸線から1km以上離れていますが、中海に沿った中海町や穂日島町は戦後に開発された干拓地であるため、旧街道の時代には湖岸線は現在とは全く異なる形で、周辺の景観も今とは全く違っていたことでしょう。

4308.汐土手の旧街道
県境から安来までの間にはいくつかの小さな丘陵があり、まずは八坂と呼ばれる丘越えにかかっていきます。旧街道の道筋は残されていないので、汐土手の道を通り過ぎた先の道路に出ると、少しだけ戻るような形で遠くに米子市街を見ながら国道に復帰し、八坂山を切通しで越えていきます。交通量の少ない時を選んで撮影した写真4310では普通の地方の国道のように見えますが、この付近の国道は山陰随一の幹線道路として交通が集中している割には整備状況が悪く、陰田町交差点からここまで渋滞が続いていることも珍しくありません。歩道がないので安全にも注意を払う必要があります。

4309.左折で国道に復帰

4310.切通しで八坂山を越える
●門生
八坂山を越えれば次は門生地区で、ここでは広瀬清水街道という旧街道が南西に分岐します。この広瀬清水街道は三重塔もある清水寺の近くを通り、戦国大名尼子氏の根拠地であった月山富田城がある広瀬へと向かう旧街道で、名所の多さもさることながら、古道の山道がよく残り、案内板等がよく整備されていて歩きやすいのが魅力的です。一方で国道の北には昔からの集落があり、集落内に立ち寄れば旧街道の道筋も残っていますが、集落の外れで道が途切れてしまうので、門生交差点を左折して門生踏切を渡り、線路の南西を通る旧国道に入ります。なお、門生には清水寺仮乗降場という春の参詣シーズンのみ営業する山陰本線の臨時駅も昭和39年(1964)まで存在していました。

4311.広瀬清水街道の分岐点

4312.門生の集落内

4313.門生交差点を左折
門生地区から島田地区までの間は門生坂の小さな峠越えですが、国道と山陰本線が旧街道を分断しており、ここで歩く旧国道は線路に沿っているため平坦です。島田地区に入ると、旧街道の道筋は旧国道沿いの家並みの裏側を通っていたそうですが、それらしい道には草が生い茂って道筋がよくわからない状況になっているため、引き続き旧国道を進み、島田踏切の南にある交差点を左折して県道257号に入ります。

4314.山陰本線と並んで進む

4315.旧街道は家並みの裏側

4316.ここを左折
県道257号を200mほど西進し、写真4317の交差点を右折、100mほど西で客神社と常夜燈が置かれている島田コミュニティセンターの間を通過します。ここからは細井坂と呼ばれる次なる峠越えとなり、緩やかな坂道を上っていきます。旧街道の道筋はここから山陰本線の線路のあたりを通っていたそうで、山陰本線の島田トンネルの米子側入口付近に一里塚がありました。その痕跡も全く残されていませんが、山陰本線の複線化時に国鉄が「一里塚」という土地を買収している記録は残っているそうです。

4317.ここを右折

4318.客神社の前を通過

4319.トンネル入口付近に一里塚があった
●木の葉池
島田コミュニティセンターから400mほどで道は鉤型に曲がりますが、そこにあるのは木の葉池という池で、この池は文政10年(1827)に描かれた「道程記」という絵図にも明確に描かれています。この絵図は雲伯国境から松江までの旧街道が詳細に描かれているため、旧街道の道筋の推定や現況との比較にとても役立つ絵図です。また、この付近では振り返って見る大山の姿が見事で、山陰本線の線路の方に少し入ってみれば複線化によって使用されなくなった旧島田トンネルを見ることもできます。

4320.振り向けば大山

4321.木の葉池

4322.旧島田トンネル
木の葉池付近では竹藪の中を通り抜けていきます。旧街道は写真4326の地点から斜め右へ進む道と思われますが、しばらく先から道は荒れており、さらに進むと道筋もわからなくなってしまいます。頂上には立場があって中海の眺望もあったそうですが、このように通行困難となっているのは惜しまれるところです。そのため細井集落までの間は大きく迂回することとし、すぐ側に見えている県道334号に出ます。

4323.竹藪の中を行く

4324.左へ進んで県道へ
山陰自動車道の北を並行する県道334号は国道のバイパスとしても利用できるような立派な道路ですが、高速で自動車が行き交う割に歩道がないので、交通安全には注意してください。早く旧街道に戻りたくなるところですが、600mほど行った写真4326の交差点はあえて無視し、その50mほど先の交差点を右折します。

4325.山陰道と県道334号

4326.ここは無視して次を右折
細井集落の南の入口となる写真4327の交差点を直進し、その先の墓地のところで東には細井坂を下ってきた旧街道が見えます。先述のように通り抜けはできませんが、ここから見る道の雰囲気は旧街道らしさがあります。

4327.ここは直進

4328.細井坂を下ってきた旧街道
旧街道を見るとそのすぐ北の交差点を左折し、100m足らずでまた次の百田坂の坂道にかかっていきます。ここの上り坂はごく最近になって道路が整備されたような姿ですが、坂道を上り詰める直前で舗装が途切れます。

4329.ここで左折

4330.新しい道路になった百田坂の細井側
●百田池と黒鳥集落
百田坂の頂上では、島田地区で見た木の葉池と同じく「道程記」に描かれている百田池が西側に見えます。この周辺は道が舗装されておらず、近代以降の建物も見えないため、(電線や電柱はありますが)「道程記」に描かれた江戸時代とほとんど変わらない街道風景の中を歩くことができます。黒鳥の集落にかけての道の形状も「道程記」そのままで、集落内も細い道沿いに古い家屋が並び、昔の雰囲気を保っています。

4331.池の脇を絵図の通りに歩く

4332.道の形も絵図の通り

4333.黒鳥の集落内
写真4334の交差点では写真中央の家の右に階段があり、上れば古い五輪塔が置かれている大日堂があります。道順としては左折して山陰本線沿いの旧国道に入り、最初の黒井田踏切を渡って国道の黒鳥交差点に出ます。

4334.左折ですが正面右に大日堂

4335.黒鳥大日堂

4336.黒井田踏切を渡って国道へ
>拡大画像 黒鳥大日堂五輪塔の案内板
国道を500mほど西進しますが、道沿いに工場や会社が多いのは今まで歩いてきた国道には見られなかった傾向で、工業都市である安来らしさが感じられます。本来の旧街道の道筋としては紙塑人形作家の青戸慧生誕の地の碑がある付近で現在の線路と国道を横断し、その西の家並みの北の裏を通っていたそうですが、現在は通り抜けられる道がないため、写真4338の地点で斜め右に分岐する和田の旧道に入ります。

4337.旧街道は北の丘沿いを通っていた

4338.ここで斜め右へ
和田の集落は駅にも近い国道沿いのため新しい建物の割合も高いですが、それでも薬師堂や澳津神社もあり、旧道らしい雰囲気は感じられます。600mほどで和田の旧道を抜け、国道に戻ればまもなく安来駅に到着します。米子駅からJRの営業キロでも8.8km、地方のJR線としてもかなり長い1駅間でした。

4339.薬師堂

4340.和田の集落内
●安来駅
安来駅は平成20年(2008)に「観光交流プラザ」が併設された新しい駅舎になっており、庭園日本一とも評価される足立美術館や日本100名城の月山富田城跡などの市内有名観光スポットへの路線バスや送迎バスも発着する観光拠点となっています。それらの観光名所より知名度は劣りますが、これから歩いていく安来市街も日本遺産「出雲国たたら風土記 〜鉄づくり千年の物語〜」の構成文化財の一つです。また、駅の裏の大きな製鋼工場もここでの注目ポイントで、たたら製鉄で古代から磨き上げられてきた鉄の加工技術が、他の追随を許さない特殊鋼の製造技術に昇華していることを象徴しています。

4341.安来駅

4342.駅の裏の製鋼工場

4343.北前船のモニュメント
>拡大画像 駅前モニュメントの案内板
駅の北側は中海と十神山の地形が作った天然の良港である安来港です。古来から安来は港町として発展してきており、後醍醐天皇が隠岐配流の際に出航されたのも安来港からですし、近世には北前船の寄港地として繁栄していました。出雲街道の道筋からは少し離れますが、十神山や安来港の方へ立ち寄ると、安来の町をより深く知ることができます。駅から1kmほどの臨海工業地区には、出雲国の製鉄・製鋼の歴史や技術を紹介する和鋼博物館もあります。

4344.十神山と語臣猪麻呂の毘売像

4345.和鋼博物館
>拡大画像 語臣猪麻呂の毘売像の案内板
<8-3.米子駅→陰田→吉佐BS 9-2.安来駅→安来宿→荒島駅>
  • ●地名、人名等の読み方
    •  安来=やすぎ
    •  支布佐神社=きふさじんじゃ
    •  八坂=はっさか
    •  門生=かどう
    •  広瀬清水街道=ひろせきよみずかいどう
    •  月山富田城=がっさんとだじょう
    •  百田=ももた
    •  青戸慧=あおとけい
    •  澳津神社=おくつじんじゃ
    •  十神山=とかみやま
    •  語臣猪麻呂=かたりのおみいまろ
    •  毘売=ひめ
          
  • ●関連ページ       
  • ●参考資料
    •  門脇等玄「旅路はるか −消えゆくものへ−」
    •  島根県教育委員会「島根県歴史の道調査報告書 第一集 山陰道T 広瀬清水街道」
    •  樹林舎「定本 島根県の歴史街道」
          
  • ●取材日
    •  2015.7.4
    •  2017.11.28
    •  2018.2.21/10.27
    •  2019.6.15/9.23
    •  2020.6.16
    •  2023.9.3
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