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3-3.美作インターバス停→勝間田駅
美作・勝央エリア この区間の地図
<3-2.美作江見駅→楢原→美作インターBS 3-4.勝間田駅→勝間田宿→美作大崎駅>
県道51号を横断すると、そこからはセンターラインもある立派な道路となります。中国自動車道の北側を並行するこの道は勝央町と美作インターの間の近道として幹線道路的性格を持っており、車が高い速度で行き交っています。2301の写真で斜め右に入り、豊国神社の鳥居前に出たあたりから西では集落の裏側にあたる山沿いに旧街道の道筋が続いています。

2301.ここを斜め右へ

2302.豊国神社

2303.山沿いの旧街道
豊国の集落を抜けると右(北)には引谷池があり、その先でわずかな区間ながら未舗装の道を進みます。いったん先述の広い幹線道路に戻り、また少しだけ残る旧街道を進んでいけば、今度は大砂池があります。美作市やその先の勝央町など、美作国の東部はため池が多いのが特徴となっています。

2304.少しだけ未舗装の道

2305.斜め右へ

2306.大砂池
 
>拡大画像 美作市出雲街道歩行マップ(北山地区版)
その大砂池のところでまた広い道路に戻ると平成20年(2008年)に新設された道標があります。本来の旧街道の道筋はこの付近で中国自動車道の南側に出るのですが、通行できる状態ではないので、もう少し西まで現在の道路を進み、2308の写真の交差点を左折して中国自動車道をオーバークロスします。

2307.新設の道標

2308.ここで左へ
●四ツ辻
中国自動車道の南には「出雲街道 四ツ辻」という新設の道標があります。ここは東西方向の道である出雲街道と、岡山と鳥取を結ぶ南北方向の道である因幡・備前往来が交差していた地点で、標柱には「備前岡山へ十三里」「因幡鳥取へ十四里」と刻まれています。因幡・備前往来は出雲街道や因幡街道ほど有名な街道ではありませんが、鳥取藩と岡山藩は江戸時代に同じ池田家が治めていたこともあって交流が活発で、この街道も盛んに利用されていたようで、その沿線には多数の道標も残されています。

2309.四ツ辻の新設道標
>拡大画像 美作市出雲街道歩行マップ(中尾地区版)
四ツ辻からは中国自動車道のすぐ南側に旧街道が残っています。この道は長らく放置されて荒れていましたが、令和3年(2021年)10月に「美作市歴史文化財研究会(地名往来部会)」の皆様がきれいに草刈りをしてくださり、快適に歩けるようになりました。次の上相地区に出るまでの約500mの間には特筆すべき史跡はないものの、ここは昔の道がそのまま残る区間です。

2310.きれいに草が刈られました

2311.復活した街道が続く
四ツ辻から続く山道を通り抜けて上相地区の谷に出ればかつて立派な松が植えられていたという立場跡があり、その先でかつて板橋が架けられていたという上相川を渡ります。川を渡ったところの田園は安政5年(1858年)に時の老中堀田正睦の息子の堀田正倫との婚約のため江戸に向かった松江藩の政姫が休息されたという場所で、お姫田と呼ばれています。それにしても、標柱に書かれた案内によれば、正倫は7歳、政姫は5歳だったそうで、幕末の動乱期とは言え、ほんの160年ほど前にそのような政略結婚が行なわれていたことには驚かされます。

2312.立場跡

2313.お姫田
>拡大画像 美作市出雲街道歩行マップ(上相地区版)
上相地区の谷を通過すると、急勾配の上り坂で梨木乢と呼ばれる小さな峠を目指し、頂上に近づいて坂が緩やかになったところには「出雲街道再発見の会」による標柱が設置されている鍛冶屋逧の一里塚跡があります。この付近ではカナクソ(製鉄の過程で砂鉄の不純物が固まったもの)も多く発見されているそうで、詳しくは後述しますが、たたら製鉄が盛んだった中国山地にはこのように地名等にその名残が残されている場所が多くあります。頂上付近からは道路の拡幅工事が進められているものの、弘法大師供養塔や六地蔵といった史跡は従来のまま残されていて、この付近の旧街道らしい雰囲気は今後とも保たれていきそうです。

2314.梨木乢へ上る

2315.鍛冶屋逧の一里塚跡

2316.弘法大師供養塔

2317.六地蔵
さらに道なりに進んでいくと、平成28年(2016年)3月に開通した地域高規格道路である美作岡山道路と中国自動車道をつなぐ勝央ジャンクションをアンダークロスします。真新しい道路が整備されて旧街道の風情も何もありませんが、ここにも「大畑」という小字と思われる地名とともに「古道跡/住宅跡」と刻まれた標柱があります。ここは古代の出雲街道と推定される道と住宅の跡が発掘された地点です。はっきりと目に見える史跡がなくても、「こうなること」を見越して標柱を立てて歴史を遺したのは「出雲街道再発見の会」のファインプレーだと思います。
美作岡山道路をくぐると右折、さらに突き当たりを右折して中国自動車道をくぐって左折という順で勝央町に入ります。新しい自動車専用道路が開通したばかりなので、この付近では少し古い地図には掲載されていない道を行くことになりますが、「おかやまファーマーズマーケット ノースヴィレッジ」を目指すことを意識して進んでください。

2318.最新の高規格道路は古代の道の跡

2319.美作岡山道路の先を右折

2320.中国自動車道をくぐって勝央町へ

「おかやまファーマーズマーケット ノースヴィレッジ」は名前の通り広大な農業公園で、家族で休日を過ごすのに最適な施設です。道路沿いには出雲街道を紹介する案内板があり、内容に若干の間違いがあるのは気にかかりますが、ファミリー層向けにわかりやすく地域の歴史を紹介しようというのはとても良いことだと思います。

2321.ノースヴィレッジのエントランス

2322.ノースヴィレッジの内部
>拡大画像 ノースヴィレッジの出雲街道の案内板
後世の開発によって旧街道が失われた状況がしばらく続くため、美作市の北山地区から続いている幹線道路を引き続き進んでも良いのですが、2323の写真の地点で左折して一本東の道路を選んだ方が歩くには適しているでしょう。2324の写真の交差点を右折し、また道路を横断して正面に下っていけば姿見橋の跡です。

2323.ここで左折

2324.ここで右折

2325.直進すれば姿見橋の碑
●姿見橋
姿見橋は先にご紹介した笠懸の森と同様、後醍醐天皇の隠岐配流ゆかりの伝承が残された場所です。現在は伝承に残る池もなく、石碑と案内板があるのみですが、ここで後醍醐天皇が池の水面にそのお姿を映されたと言われています。ところで、このような後醍醐天皇ゆかりの伝承は出雲街道沿線に多数存在していますが、この姿見橋とは一本のルートで結べないような場所(美咲町など)にも似たような伝説が語られる場所があります。伝承の域を出ないこれらの史跡群を巡り、自分なりに後醍醐天皇の配流ルートを推定してみるのも出雲街道の楽しみ方の一つです。

2326.姿見橋の碑
>拡大画像 姿見橋の案内板
姿見橋の碑から南に見える岡地区の集落を通り抜けて勝間田へ進んでいくこともできますが、旧街道の史跡としてさらに道標地蔵もあるので、いったん2325の写真の地点に戻って、少し下ったところから斜め左の道に入ります。このような形で進まないと両方の史跡を見られないのは、時代により街道の道筋が微妙に変わり、さらに後世の開発によって史跡が移設された結果で、時代による道の変化を感じます。

2327.みちしるべ地蔵には斜め左
●岡のみちしるべ地蔵
坂道を下ったところにある岡の地蔵は「左 かみや 右 くらしき」と刻まれており、道標の役割を果たしています。案内板にも記されているように、この付近にはかつて池があり、その埋め立てや道路整備の結果として現在の姿で保存されています。

2328.岡のみちしるべ地蔵
>拡大画像 岡のみちしるべ地蔵の案内板
道標地蔵の西側の交差点からは斜め右に旧街道の道筋が復活します。岡地区は姿見橋や道標地蔵だけでなく、史跡がまだまだ多くある地区で、旧街道の坂道を上っていくと岡神社があり、そこからも石仏や供養塔などが見られます。そして「岡地区史蹟保存会」がその歴史を残すべく活発に活動されておられるのも印象的です。

2329.斜め右で丘陵の方へ

2330.岡神社

2331.石仏や供養塔が多く残る

2332.広い道路に合流
>拡大画像 岡神社の案内板
>拡大画像 岡地方史跡案内図
●湯大明神
坂道を下って、広い田園地帯を貫く現在の道路に戻りますが、北には「湯大明神」と記された幟が立てられているのが見えます。そこに立ち寄れば文殊菩薩と薬師如来の仏像があります。圃場整備によって移設されてきた仏像ではありますが、最近の研究により、文殊菩薩の方に「湯大明神」という文字が彫られていること、また、古い街道の絵図にもこの付近の「御湯」という記載があることがわかり、勝間田宿の北東にはかつて温泉が湧いていたことが明らかになりました。

2333.湯大明神
2334の写真の交差点を直進すると道は狭くなり、比較的古くから市街化していたと想像できるような家並みが続くようになります。勝間田駅から北へ向かう県道67号と交差するといよいよ勝間田宿の中心部で、ここから道路の舗装は石畳風になります。

2334.直進の狭い道へ

2335.石畳風の舗装になる
勝間田宿に入る前に勝間田駅に立ち寄れば、令和3年(2021年)に建て替えられたばかりの駅舎に迎えられます。最近、JR西日本の駅では西栗栖駅のように、老朽化した駅舎が解体されて簡易な待合室だけになってしまう例が多いのですが、ここは出雲街道の「美作七宿」をイメージした立派な駅舎となりました。勝央町は勝間田宿の街並みで毎年9月に開催される「街道祭」を筆頭にイベントも多く、「勝田郡・勝央町・勝間田」という地名を活かした「勝ブランド」展開など、町の取り組みが積極的で元気なイメージを感じられる町となっています。余談ながら、戦時中にはわざわざ「勝つまで」駅から出征したとのエピソードがありますが、隣の駅は「早死のう」駅なので、当時の人々の切実な本音がこもった縁起担ぎだったと言えます。

2336.勝間田駅
>拡大画像 出雲街道と勝間田宿(美作七宿)の案内板
<3-2.美作江見駅→楢原→美作インターBS 3-4.勝間田駅→勝間田宿→美作大崎駅>
  • ●地名、人名等の読み方
    •  勝央町=しょうおうちょう
    •  上相=かみや
    •  船渡=ふなと
    •  堀田正睦=ほったまさよし
    •  堀田正倫=ほったまさとも
    •  鍛冶屋逧=かじやざこ
          
  • ●関連ページ       
  • ●参考資料
    •  美作地域歴史研究連絡協議会「美作の道標と出雲往来一里塚」
    •  美作地域歴史研究連絡協議会「美作の因幡・備前往来をたどる」
    •  勝央町文化財保護員会「勝央町の交通」
    •  岡山県文化財保護協会「岡山県歴史の道調査報告書第四集 出雲往来」
          
  • ●取材日
    •  2014.9.23
    •  2016.5.3
    •  2018.4.11/9.12
    •  2019.6.24
    •  2020.9.27/10.5
    •  2021.3.24/12.10
    •  2022.7.23
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